現代語訳
- `昔、延長の頃
- `三井寺に興義という僧がいた
- `絵の巧みなことで世に名を知られていた
- `常に描くは
- `仏像・山水・花鳥のみならず
- `寺の仕事に暇のある日には湖に小舟を浮かべて
- `網引きや釣りをする漁夫に銭を与え
- `獲った魚をもとの江に放ち
- `その魚の躍り遊ぶを見ては描くうち
- `年を経て精妙になった
- `ある時絵に心を凝らして眠気を誘えば
- `夢の中で江に入り
- `大小の魚と共に戯れる
- `覚めればすぐさま見たままを描き壁に貼り
- `自ら呼んで夢応の鯉魚と名付けた
- `その絵の見事さに感じ入り欲しがる人たちが我を争えば
- `花鳥山水の絵は乞うにまかせて与えたが
- `鯉魚の絵は強く惜しんで
- `人々に戯れてこう言った
- `生を殺し新鮮なものを食う凡俗の人に
- `法師の養う魚を与えることはできない、と
- `その絵と言葉とともに天下に知れ渡った
- `ある年病にかかり
- `七日後にわかに目を閉じ
- `息絶えてしまった
- `徒弟や友人が集まって嘆き惜しんだが
- `ただ心臓の辺りがかすかに暖かい
- `もしやと思い囲み居て見守れば三日の後に
- `手足が少し動いたようであったが
- `たちまち溜息を吐いて眼を開き
- `醒めたがごとくに起き上がり、人々に向かって
- `私は意識を失って久しい
- `幾日を過ごしたのか
- `弟子達は言う
- `師は三日前に息を引き取られました
- `寺中の人々をはじめ
- `日頃親しく語られた方々もお出でになって
- `葬儀の準備もされましたが
- `師の胸元が温かいのを見て
- `棺にも納めずこのように見守っておりますと
- `蘇生なさって
- `よくぞ葬らなかったと喜び合っていたのです
- `興義はうなずいて
- `誰でもよいから一人
- `檀家の平の助の殿の館に出向いてこう伝えてもらいたい
- `法師は不思議にも生きておいでです
- `貴方様は今酒を酌み、新鮮な鱠を造らせておいでのようですが
- `しばらく宴を止めて寺にお越しください
- `不思議な話をお聞かせします、とな
- `そして人々の様子を見てまいれ
- `我が言葉に少しも違うまい、と言う
- `使者は訝しみながらその館に行って
- `その由を伝えて、入って窺い見れば
- `主の助をはじめ
- `弟の十郎
- `下男の掃守などが座を囲んで酒を酌み交わしていたので
- `師の言葉と違わないのが不思議であった
- `助の館の人々がこのことを聞いてひどく奇妙に思い
- `まず箸を止めて
- `十郎と掃守を連れて寺を訪れた
- `興義は頭を起こし、来てくれたことに感謝をすると
- `助も蘇生の祝いを述べた
- `興義がまず尋ねた
- `どうか私の話をお聞きください
- `かの漁夫・文四に魚を造らせたことがありますね
- `助は驚いて
- `たしかにありました
- `どうしてご存じなのですか
- `興義
- `あの漁夫は三尺ほどの魚を籠に入れて貴殿の館に行きました
- `あなたは弟君と南面の所で碁を囲んでおられます
- `掃守が傍らにおり
- `大きな桃の実を食べながら碁の手を見ています
- `漁夫が大きな魚を運んで来るのを喜んで高杯に盛った桃を与え
- `また杯を与えて三献飲ませました
- `料理人は得意顔で魚を取り出して鱠にしたところまで
- `私が語ることに相違はございますまい、と言うので
- `助の所の人々はこのことを聞いて
- `ある者は不思議に思い、ある者は心惑わせて
- `これほど詳しく語る理由をしきりに尋ねると
- `興義はこう語った
- `私はこの頃病に苦しんで耐え難いあまり
- `死んだことにも気づかず
- `熱い心地を少し冷まそうと
- `杖に寄りかかりながら門を出れば
- `病もずいぶん忘れたようで籠の鳥が雲間に帰る心地がしました
- `山となく里となく行き行きて
- `再び江のほとりに出
- `碧の湖水を見てからは
- `夢心地に浴びて遊ぼうと
- `そこに衣を脱ぎ去り
- `身を躍らせて深みに飛び込み
- `あちらこちらと泳ぎ回れば
- `幼い頃より水に親しんだわけではないのですが
- `思いのままに戯れました
- `今思えば愚かなる夢心でした
- `人が水に浮くのは魚が快く泳ぐのには及びません
- `ここでまた魚の遊ぶのを羨む気持ちが起こったのです
- `そばから一尾の大魚がいて言いました
- `師の願いはいともたやすいことです
- `お待ちください、と
- `そして遥かな底へ去ったと見るや
- `しばらくして冠装束を着た人が
- `さっきの大魚に跨り
- `数多の魚どもを率いて浮かんできて
- `私に向かって言いました
- `海神のお告げがあった
- `貴僧は以前から放生の功徳をたくさん積んでいる
- `今、江に入り魚と戯れてもらいたい
- `権利として金鯉の服を授けて水府の楽しみをお与えくださる
- `ただ餌の香ばしさに眩まされて釣り糸にかかり
- `身を滅ぼさぬように、と言って去ると見えなくなりました
- `不思議のあまりに我が身を振り返って見れば
- `いつの間にやら金色の鱗をまとって
- `一尾の鯉と化していました
- `奇妙にも思わず
- `尾を振り鰭を動かして心のままに泳ぎ回りました
- `まず長等の山颪に
- `立つ波に身を乗せて
- `志賀の大湾の水際で遊べば
- `道行く人が衣の裾を濡らして行き交うのに驚かされて
- `比良の高山の影映る
- `深い水底に潜ろうとすれども
- `かくれ堅田の漁り火に夢うつつに引き寄せられれば
- `真っ暗な夜中の水面に映る月は
- `鏡の山の峰に澄み渡り
- `数多の湊は隈もなく美しく
- `沖津島山
- `竹生島
- `波に映る朱の垣には驚かされて
- `伊吹の山風に
- `朝妻の渡舟も漕ぎ出れば
- `葦の間に見ていた夢を覚まされて
- `矢橋の渡し守の櫂を逃れては
- `瀬田の橋守に何度も追いかけられました
- `日が暖かいときには浮かび
- `風の荒い時には千尋の水底に遊んだのです
- `急に飢えて食べ物が欲しくなったのですが
- `あちこち漁っても得られず狂おしくなっていると
- `忽ち文四が釣り糸を垂れているところに会いました
- `その餌は実に香ばしいのです
- `心に河の神の戒めを守って思うに
- `私は仏の御弟子である
- `しばし食を得られぬからとて
- `どうしてあさましく魚の餌を飲み込めよう、とそこを去りました
- `しばらくすると飢えはますますひどくなり
- `重ねて思うに
- `もう堪えられない
- `たとえこの餌を飲み込んだとして愚かしく捕られたりはしまい
- `もとより彼は見知っている者だから
- `何をはばかることもあるまい、と
- `ついに餌を飲んでしまいました
- `文四は素早く糸を手繰って私を捕らえました
- `どうするつもりだ、と叫びましたが
- `彼はいささかも聞こえない顔で
- `私を掴み縄で私の顎を貫き
- `芦の間に舟をつなぎ
- `私を籠に押し込んで貴殿の屋敷の門に入っていきました
- `貴殿は弟君と南面の間で碁を打って遊んでおいででした
- `掃守が傍らに控えて木の実を食べていました
- `文四が持ってきた大魚を見て人々は大いに感心なさいました
- `私はその時人々に向かって声を張り上げました
- `皆さんは興義をお忘れですか
- `お許し下さい
- `寺に帰してください、としきりに叫びましたが
- `人々は知らぬげに扱い
- `ただ手を叩いて喜ばれました
- `鱠の料理人は
- `まず私の両目を左手の指で強く押さえると
- `右手に研ぎ澄ました刃物をとってまな板に載せ
- `まさに切ろうとしたとき
- `私は苦しさのあまりに大声をあげて
- `仏弟子を害するものがありますか
- `私を助けてください、助けてください、と泣き叫びましたが聞き入れず
- `ついに切られる、と覚えて目が醒めたのです、と語った