八八清水炎上
原文
- `山門の大衆狼藉を致さば手向かへすべき処に心深う狙ふ方もやありけん一詞も出ださず
- `御門隠れさせ給ひて後は心なき草木までも皆愁へたる色にてこそあるべきにこの騒動のあさましさに高きも賤しきも肝魂を失ひて四方へ皆退散す
- `同じき二十九日の午の刻ばかり山門の大衆夥しう下洛すと聞えしかば武士検非違使西坂本に行き向かつて防ぎけれども事ともせず押し破つて乱入す
- `また何者の申し出だしたりけるやらん
- `一院山門の大衆に仰せて平家追討せらるべし
- `と聞えしかば軍兵内裏に参じて四方の陣頭を警固す
- `平氏の一類皆六波羅へ馳せ集まる
- `一院も急ぎ六波羅へ御幸成る
- `清盛公その時は未だ大納言右大将にておはしけるが大きに恐れ騒がれけり
- `小松殿
- `何によつて只今さる事候ふべき
- `と鎮め申されけれども兵共騒ぎ罵る事夥し
- `されども山門の大衆六波羅へは寄せずして漫ろなる清水寺に押し寄せて仏閣僧房一宇も残さず焼き払ふ
- `これは去んぬる御葬送の夜の会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし
- `清水寺は興福寺の末寺たるによつてなり
- `清水寺焼けたりける朝や
- `観音火坑変成池はいかに
- `と札に書きて大門の前に立てたりければ次の日また
- `歴劫不思議力不及ばず
- `と返しの札をぞ打ちたりける
- `衆徒帰り上りにければ一院も急ぎ六波羅より還御なる
- `重盛卿ばかりぞ御供には参られける
- `父卿は参られず
- `なほ用心の為かとぞ見えし
- `重盛卿御送りより帰られたりければ父大納言宣ひけるは
- `さても一院の御幸こそ大きに恐れ覚ゆれ
- `予ても思し召し寄り仰せらるる旨のあればこそかうは聞えめ
- `それにもうち解け給ふまじ
- `と宣へば重盛卿申されけるは
- `この事努々御気色にも御詞にも出ださせ給ふべからず
- `人に心付け顔に中々悪しき御事なり
- `それにつけてもよくよく叡慮に背かせ給はで人の為に御情を施させましまさば神明三宝加護あるべし
- `さらんにとつては御身の恐れ候ふまじ
- `とて立たれければ
- `重盛卿はゆゆしう大様なる者かな
- `とぞ父卿も宣ひける
- `一院還御の後御前に疎からぬ近習者達数多候はれけるに中に
- `さても不思議の事を申し出だしたるものかな
- `露も思し召し寄らぬものを
- `と仰せければ院中の切り者に西光法師といふ者あり
- `折節御前近う候ひけるが進み出でて
- `天に口なし人を以て云はせよ
- `と申す
- `平家以ての外に過分に候ふ間天の御戒めにや
- `とぞ申しける
- `人々
- `この事由なし
- `壁に耳あり
- `恐ろし恐ろし
- `とぞ各囁き合はれける