二一少将乞請

原文

  1. `丹波少将成経その夜しも院御所法住寺殿に上臥して未だ出でられざりけるに大納言の侍共急ぎ院御所に馳せ参りて少将殿を呼び出だし奉りこの由かくと申しければ少将
  2. `これほどの事などや宰相の許より今まで告げ知らせざるらん
  3. `と宣ひも果てぬに
  4. `宰相殿より
  5. `とて御使あり
  6. `この宰相と申すは入道相国の御弟宿所は六波羅の惣門の内におはしければ
  7. `門脇宰相
  8. `とぞ申しける
  9. `丹波少将には舅なり
  10. `何事にて候ふやらん今朝西八条殿よりきつとへ具し奉れと候ふ
  11. `と宣ひ遣はされたりければ少将この事心得て近習の女房達を呼び出だし参らせて
  12. `夜辺何となう世の物騒がしう候ひしを例の山法師の下るかなど余所に思ひて候へばはや成経が身の上に罷りなつて候ひけるぞや
  13. `夕さり大納言斬らるべう候ふなれば成経とても同罪にてぞ候はんずらめ
  14. `今一度御前へ参りて君をも見参らせたく候へどもかかる身に罷りなりて候へば憚り存じ候ふ
  15. `とぞ申されたりければ女房達御前へ参りてこの由奏せられたりければ法皇さればこそ今朝の禅門の使にはや御心得ありて
  16. `さるにてもこれへ
  17. `と御気色ありければ少将御前へ参られたり
  1. `法皇御涙を流させ給ひて仰せ下さるる旨もなく少将もまた涙に咽せんで申し上げらるる事もなし
  2. `ややありて少将御前を罷り出でられけるに法皇後を遥かに御覧じ送りて
  3. `ただ末代こそ心憂けれ
  4. `これが限りにてまたも御覧ぜぬ事もやあらんずらん
  5. `とて御涙せき敢へさせ給はず
  6. `少将御前を罷り出でられけるに院中の人々局の女房達に至るまで名残を惜しみ袂にすがり涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり
  7. `舅の宰相の許へ出でられたれば北方は近う産すべき人にておはしけるが今朝よりこの嘆きうち添へて既に命も消え入る心地ぞせられける
  1. `少将御所を罷り出でられけるより流るる涙尽きせぬに今北方の有様を見給ひてぞいとどせん方なげにぞ見えられける
  2. `少将乳母に六条といふ女房あり
  3. `御乳に参り始め候ひて君を血の中より抱き上げ参りおほしたて参らせしより以来月日の重なるに随ひて我が身の年の行くをば嘆かずして君の大人しうならせ給ふ事をのみ喜びあからさまとは思へども今年は二十一年離れ参らせ候はず
  4. `院内へ参らせ給ひて遅う出ださせ給ふだに心苦しう思ひ参らせ候ひつるにいかなる憂き目にか逢はせ給ふべきやらん
  5. `とて泣く
  6. `いたうな嘆いそ
  7. `宰相さておはすればさりとも命ばかりをば乞ひ受け給はんずらん
  8. `とやうやうに慰め宣へども六条人目も恥ぢず泣き悶えけり
  1. `さるほどに西八条殿より使頻繁にありしかば宰相
  2. `出向かつてこそともかうもならめ
  3. `とて出でられければ少将も宰相の車の後に乗りてぞ出でられける
  4. `保元平治より以来平家の人々は楽しみ栄えのみありて憂へ嘆きはなかりしにこの宰相ばかりこそ由なき聟故にかかる嘆きをばせられけれ
  5. `西八条近うなつてまづ案内を申されたりければ
  6. `少将をば門の内へは入れらるべからず
  7. `と宣ふ間その辺なる侍の家に下ろし置き奉り宰相ばかりぞ門の内へは参られける
  8. `いつしか少将をば武士共うち囲んで厳しう守護し奉る
  9. `さしも去り難う頼まれたりつる宰相殿には離れ給ひぬ
  10. `少将の心の内さこそは頼りなかりけめ
  1. `宰相中門に居給ひたれども入道出でも逢はれず
  2. `ややありて宰相源大夫判官季貞を以て申されけるは
  3. `教盛こそ由なき者に親しうなつて返す返す悔しみ候へどもかひぞなき
  4. `相具せさせて候ふ者のこのほど悩む事の候ふが今朝よりこの嘆きをうち添へては既に命も絶え候ひなんず
  5. `教盛かうて候へばなじかは僻事せさせ候ふべき
  6. `少将をば暫く教盛に預けさせおはしませ
  7. `と申されければ季貞参つてこの由を申す
  8. `入道
  9. `あはれ例の宰相が物に心得ぬよ
  10. `とて頓に返事もし給はず
  1. `ややあつて入道宣ひけるは
  2. `新大納言成親卿はこの一門を滅ぼして天下乱らんとする企てあり
  3. `この少将といふは既にかの大納言が嫡子なり
  4. `疎うもあれ親しうもあれえこそ申し宥むまじけれ
  5. `もしこの謀反遂げなましかば御辺とてもおだしうやおはすべき
  6. `と云ふべし
  7. `と宣ひける
  1. `季貞帰り参つて宰相殿にこの由を申す
  2. `宰相世にも本意なげにて重ねて申されけるは
  3. `保元平治より以来度々の合戦にも御命には代はり参らせんとこそ存じ候ひしか
  4. `この後も荒き風をばまづ防ぎ参らせ候ふべし
  5. `たとひ教盛こそ年老いて候ふとも若き子共数多候へば一方の御固めにはなどかならでは候ふべき
  6. `それに成経暫く少将を預らうと申すに御許されなきは一向教盛を二心ある者と思し召され候ふにこそ
  7. `これほど後めたう思はれ参らせては世にありても何にかはし候ふべきなれば身の暇を給はつて出家入道仕り高野粉河に籠り居て一筋に後世菩提の勤めを営み候はん
  8. `由なき憂き世の交はりなり
  9. `世にあればこそ望みもあれ望みの叶はねばこそ恨みもあれ
  10. `如かじ憂き世を厭ひ真の道に入りなんには
  11. `とぞ宣ひける
  1. `季貞参つて
  2. `宰相殿ははや思し召し切つて候ふぞ
  3. `ともかうもよきやうに御計らひ候へ
  4. `と申しければ入道
  5. `いやいや出家入道まではあまりにけしからず
  6. `その儀ならば少将をば暫く教盛に預くる
  7. `と云ふべし
  8. `とこそ宣ひける
  1. `季貞帰り参つて宰相殿にこの由を申す
  2. `宰相
  3. `あはれ人の子をば持つまじかりけるものかな
  4. `我が子の縁に結ぼほれざらんにはこれほどまで心をば砕かじものを
  5. `とて出でられけり
  1. `少将待ち受け奉りて
  2. `さていかが候ひつるやらん
  3. `と申されければ
  4. `入道あまりに怒つて教盛にはつひに対面もし給はず
  5. `いかにも叶ふまじき由を頻りに宣ふ間出家入道まで申したればにや
  6. `その儀ならば御辺をば暫く教盛に預くると宣ひつれどもそれも始終はよかるべしとも覚えず
  7. `と宣へば少将
  8. `さ候はんにははや成経は御恩を以て暫しの命の延び候ふにこそ
  9. `さては父で候ふ大納言が事は何とか聞し召されて候ふ
  10. `宰相
  11. `いさとよ御辺の事をこそやうやうに申したれ
  12. `それまでは思ひも寄らず
  13. `と宣へば少将涙をはらはらと流いて
  14. `今命の惜しう候ふも父を今一度見ばやと思ふ為なり
  15. `夕さり大納言斬られ候はんずるに於いては成経とても命生きて何にかはし候ふべきなればただ一所でよきやうに申して給ばせ給ふべうもや候はん
  16. `と申されければ宰相世にも苦しげにて重ねて宣ひけるは
  17. `御辺の事をこそやうやうに申したれ
  18. `それまでは思ひも寄らざりつれども今朝内大臣のやうやうに申されつればそれも暫しはよきやうにこそ聞け
  19. `と宣へば少将聞きも敢へ給はず合はせてぞ悦ばれける
  20. `子ならざらん者は誰か只今我が身の上を差し置いてこれほどまでは悦ぶべき
  21. `まことの契りは親子の中にぞありける
  22. `子をば人の持つべかりけるものかな
  23. `とやがて思ひぞ返されける
  1. `さて今朝の如くに同車して帰られたれば宿所には女房侍差し集ひて死にたる人の生き返りたる心地して悦び泣きをぞせられける