六二二教訓
原文
- `太政入道はかやうに人々数多召し縛め置いてもなほ心行かずや思はれけん既に赤地の錦の直垂に黒糸威の腹巻の白金物打つたる胸板せめ先年安芸守たりし時神拝の序でに霊夢を蒙つて厳島大明神より幻に給はられたりける銀の蛭巻したる小長刀常の枕を放たず立てられたりしを脇に挟んで中門の廊へぞ出でられたる
- `その気色大方ゆゆしうぞ見えし
- `貞能
- `と召す
- `筑後守貞能は木蘭地の直垂に緋威の鎧着て御前に畏つてぞ候ひける
- `貞能いかが思ふ
- `抑も保元に平馬助を始めとして一門半ばを過つて新院の御方に参りにき
- `一宮の御事は故刑部卿殿の養君にてましまししかばかたがた見放ち参らせ難かりしかども故院の御遺戒に任せて御方にて先を駆けたりき
- `これ一の奉公なり
- `次に平治元年十二月信頼義朝が謀反の時院内を取り奉つて大内に楯籠り天下黒闇となりたりしにも入道随分身を捨てて凶徒を追ひ落し経宗惟方を召し縛めしに至るまで君の御為に既に命を失はんとする事度々に及ぶ
- `されば人何と申すともこの一門をば七代まではいかでか思し召し捨てさせ給ふべきにそれに成親といふ無用の徒者西光といふ下賤の不当人めが申す事に付かせ給ひてややもすればこの一門を滅ぼさるべき由の法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ
- `この後も讒奏する者あらば当家追討の院宣を下されつとぞ覚ゆるなり
- `朝敵となりて後はいかに恨むとも益あるまじ
- `世を鎮めんほど法皇をば鳥羽の北殿へ遷し参らするか然らずはこれへまれ御幸を成し参らせうと思ふはいかに
- `その儀ならば定めて北面の輩共が中より箭をも一つ射んずらん
- `その用意せよと侍共に触るべし
- `凡そは入道院方の奉公思ひ切つたり
- `馬に鞍を着背長取り出だせ
- `とこそ宣ひけれ
- `主馬判官盛国急ぎ小松殿へ馳せ参つて
- `世ははやかう候ふ
- `と申しければ大臣聞きも敢へず
- `あははや成親卿が首を刎ねられたんな
- `と宣へば
- `その儀にては候はねども入道殿の着背長を召され候ふ上は侍共も皆打つ立て只今法住寺殿へ寄せんと出で立ち候ふ
- `暫く世を鎮めんほど法皇をば鳥羽の北殿へ遷し参らせうとはこれ候へども内々は鎮西の方へ流し参らせうとこそ擬せられ候ひつれ
- `と申しければ大臣
- `いかでかさる事あるべき
- `とは思はれけれども今朝の禅門の気色よくさる物狂しき事もおはすらんとて急ぎ車を飛ばせ西八条へぞおはしたる
- `門前にて車より下り門の内へ差し入つて見給へば入道腹巻を着給ふ上一門の卿相雲客数十人各色々の直垂に思ひ思ひの鎧着て中門の廊に二行に着せられたり
- `その外諸国の受領衛府諸司などは縁に居こぼれ庭にもひしと並み居たり
- `旗竿共引き側め引き側め馬の腹帯を固め甲の緒を縮めただ今皆打立んずる気色共なるに小松殿烏帽子直衣に大紋の指貫の稜取つてさやめき入り給へば事の外にぞ見えられける
- `入道伏し目になつて
- `例の内府が世を僄するやうに振舞ふものかな
- `大きに諫めばや
- `とこそ思はれけれどもさすが子ながらも内には五戒を保つて慈悲を先とし外には五常を乱らず礼儀を正しうし給ふ人なり
- `あの姿に腹巻を着て向かはん事さすが恥づかしう面映ゆうや思はれけん障子を少し引き立てて腹巻の上に素絹の衣を周章着に着給ひたりけるが胸板の金物の少し外れて見えけるを隠さうと頻りに衣の胸を引き違へ引き違へぞし給ひける
- `その後大臣舎弟宗盛卿の座上に着き給ふ
- `入道も宣ひ出ださるる旨もなく大臣もまた申し上げらるる事もなし
- `ややありて入道宣ひけるは
- `成親卿が謀反は事の数にもあらず
- `一向法皇の御結構にて候ひけるぞや
- `暫く世を鎮めんほど法皇をば鳥羽の北殿へ遷し参らするか然らずばこれへまれ御幸を成し参らせうと思ふはいかに
- `と宣へば大臣聞きも敢へずはらはらとぞ泣かれける
- `入道
- `さていかにやいかに
- `とあきれ給ふ
- `ややありて大臣涙を押さへて
- `この仰せ承り候ふに御運ははや末になりぬと覚え候ふ
- `人の運命の傾かんとては必ず悪事を思ひ立ち候ふなり
- `また御有様を見参らせ候ふに更に現とも覚え候はず
- `さすが我が朝は辺里粟散の境と申しながら天照大神の御子孫国の主として天児屋根命の御末朝の政を司り給ひしより以来太政大臣の官に至る人の甲冑を鎧ふ事礼儀を背くにあらずや
- `就中御出家の御身なり
- `それ三世の諸仏解脱同相の法衣を脱ぎ捨てて忽ちに甲冑を鎧ひ弓箭を帯しましまさん事内には既に破戒無慙の罪を招くのみならず外にはまた仁義礼智信の法にも背き給ひ候ひなんず
- `かたがた恐れある申し事にて候へども心の底に旨趣を残すべきにも候はず
- `まづ世に四恩候ふ
- `天地の恩国王の恩父母の恩衆生の恩これなり
- `その中に最も重きは朝恩なり
- `普天の下王地にあらずといふ事なし
- `さればかの穎川の水に耳を洗ひ首陽山に蕨を折りし賢人も勅命背き難き礼儀をば存知すとこそ承れ
- `いかに況や先祖にも未だ聞かざつし太政大臣を極めさせ給ふ
- `いはゆる重盛が無才愚闇の身を以て蓮府槐門の位に至る
- `然のみならず国郡半ば一門の所領と成つて田園悉く一家の進止たり
- `これ稀代の朝恩にあらずや
- `今これらの莫大の御恩を思し召し忘れてみだりがはしく法皇を傾け参らさせ給はん事天照大神正八幡宮の神慮にも背かせ給ひ候ひなんず
- `それ日本は神国なり
- `神は非礼を受け給はず
- `然れば君の思し召せ立たせ給ふところ道理半ば無きにあらず
- `中にもこの一門は代々の朝敵を平らげて四海の逆波を静むる事は無双の忠なれどもその賞に誇る事は傍若無人とも申しつべし
- `聖徳太子十七か条の御憲法に
- `人皆心あり
- `必各執あり
- `彼を是とし我を非とし我を是とし彼を非とす
- `是非の理誰かよく定むべき
- `相共に賢愚となつて環の端なきが如し
- `ここを以てたとひ人怒るといふとも却つて我が咎を恐れよ
- `とこそ見えて候へ
- `されども当家の運命尽きざるによつて御謀反既に顕れぬ
- `その上仰せ合はさるる成親卿を召し置かれぬる上はたとひ君いかなる不思議を思し召し立たせ給ふとも何の恐れか候ふべき
- `所当の罪科を行はれぬる上は退いて事の由を陳じ申させ給ひて君の御為にはいよいよ奉公の忠勤を尽くし民の為には益々撫育の哀憐を致させ給はば神明の加護に与つて仏陀の冥慮に背くべからず
- `神明仏陀感応あらば君も思し召し直す事などか候はざるべき
- `君と臣と並ぶれば親疎分く方なし
- `道理と僻事を並べんにいかでか道理につかざるべき