七二三烽火
原文
- `尤もこれは君の御理にて候へば叶はざらんまでも重盛は院中を守護し参らせ候ふべし
- `その故は重盛始め叙爵より今大臣の大将に至るまでしかしながら君の御恩ならずといふ事なし
- `その恩の重き事を思へば千顆万顆の玉にも超えその恩の深き色を案ずるに一入再入の紅にも過ぎたらん
- `然らば院中に参り籠り候ふべし
- `その儀にて候はば重盛が身に代はり命に代はらんと契りたる侍共少々候ふらん
- `これらを皆召し具して院御所法住寺殿を守護し参らせ候はばさすが以ての外の御大事にてこそ候はんずらめ
- `悲しきかな君の御為に奉公の忠を致さんとすれば迷盧八万の頂よりなほ高き父の恩忽ちに忘れんとす
- `痛ましきかな不孝の罪を遁れんとすれば君の御為には不忠の逆臣となりぬべし
- `進退これ極まれり
- `是非いかにも弁へ難し
- `申し請くる所詮はただ重盛が首を召され候へ
- `さ候はば院参の御供をも仕るべからず
- `また院中をも守護し参らせ候ふまじ
- `かの蕭何は大功かたへに越えたるによつて官大相国に至り剣を帯し沓を履きながら殿上に昇る事を許されしかども叡慮に背く事あしりかば高祖重う警めて深う罪せられにき
- `かやうの先蹤を思ふにも富貴といひ栄花といひ朝恩といひ重職といひかたがた極めさせ給ひぬれば御運の尽きん事も難かるべきにも候はず
- `富貴の家には禄位重畳せり
- `二度実なる木はその根必ず傷む
- `とこそ見えたれ
- `心細くこそ候へ
- `いつまでか命生きて乱れん世をも見候ふべき
- `ただ末代に生を受けてかかる憂き目に逢ひ候ふ重盛が果報のほどこそ拙く候へ
- `只今も侍一人に仰せ付けられ御坪の内へ引き出だされて重盛が首の刎ねられんずる事はいと易いほどの事でこそ候はんずらめ
- `これ各聞き給へ
- `とて直衣の袖を顔に押し当てさめざめと掻き口説かれければその座にいくらも並み居給へる平家一門の人々皆袖をぞ濡らされける
- `入道頼み切つたる内府はかやうに宣ふ
- `世に力なげにて
- `いやいやこれまでは思ひも寄りさうず
- `悪党共の申す事に君の付かせ給ひて僻事などもや出で来んずらんと思ふばかりでこそ候へ
- `と宣へば大臣
- `たとひいかなる僻事出で来き候ふとも君をば何とかし参らせ給ふべき
- `とてつい立ちて中門に出で侍共に宣ひけるは
- `汝等よくよく承らずや
- `今朝よりこれに候うてかやうの事共申し静めんとは存じつれどもあまりに直騒ぎに見えつる間まづ帰り候ふなり
- `院参の御供に於いては重盛が首の刎ねられんを見て仕れ
- `さらば人参れ
- `とて小松殿へぞ帰られける
- `その後大臣主馬判官盛国を召して
- `重盛こそ天下の大事を聞き出だしたれ
- `我を我と思はん者共は急ぎ物具して参れ
- `と披露せよ
- `と宣へば馳せ廻つて披露す
- `朧げにては騒ぎ給はぬ人のかやうの披露のあるは別の子細のあるにこそ
- `とて皆物具して我も我もと馳せ参る
- `淀羽束瀬宇治岡屋日野勧修寺醍醐小栗栖梅津桂大原志津原芹生の里に溢れ居たりける兵共或いは鎧着て未だ甲を着ぬもあり或いは矢負うて未だ弓を持たぬもあり
- `片鐙踏むや踏まずにて周章て騒いで馳せ参る
- `小松殿に騒ぐ事ありと聞えしかば西八条に数千騎ありける兵共入道にかうとも申しも入れずさやめき連れて皆小松殿へぞ馳せたりける
- `少しも弓箭に携らんほどの者一人も洩るるはなかりけり
- `その時入道大きに驚き筑後守貞能がただ一人候ひけるを召して
- `内府は何とてこれらをばかくの如く呼び取るやらん
- `今朝これにて申しつるやうに浄海が許へ討手などもや向けんずらん
- `と宣へば貞能涙をはらはらと流いて
- `人も人にこそよらせ給ひ候へ
- `いかでかさる御事候ふべき
- `今朝これにて申させ給ひつる御事共も皆はや御後悔ぞ候ふらん
- `と申しければ入道内府に仲違うては悪しかりなんとや思はれけん法皇仰へ参らせんと思はれける心も和らぎ急ぎ腹巻脱ぎ置き素絹の衣に袈裟うち懸けていと心にも起らぬ念誦してこそおはしけれ
- `その後小松殿には盛国承つて着到付けけり
- `馳せ参じたる兵共一万余騎とぞ記しける
- `大臣着到披見の後中門に出でて侍共に宣ひけるは
- `日比の契約を違へず皆参りたるこそ神妙なれ
- `異国にさる例しあり
- `周の幽王褒姒といふ最愛の后を持ち給へり
- `天下第一の美人なり
- `されどもこの后幽王の御心に叶はざりける事には褒姒笑みを含まずとてすべて笑ふ事をし給はず
- `異国の習ひに天下に兵革の起る時所々に火を挙げ大鼓を打ちて兵を召す謀あり
- `これを烽火と名付く
- `ある時天下に兵乱起つて烽火を挙げたりければ后これを御覧じて
- `あな夥しあれほどに火も多かりけりな
- `とてその時初めて笑ひ給へり
- `一度笑めば百の媚ありけり
- `幽王嬉しき事にし給ひてその事となく常に烽火を挙げ給ふ
- `諸候来たるに敵なし
- `敵なければ即ち去りぬ
- `かやうにする事度々に及べばその後は参らず
- `その時都傾いて幽王つひに滅びにけり
- `かの后は野干となつて走り失せけるぞ恐ろしき
- `かやうの譬へのある時は自今以後もこれより召さんには皆かくの如く参るべし
- `重盛不思議の事を聞き出だして召しつるなり
- `されどもこの事聞き直しつつ僻事にてありけり
- `されば疾う帰れ
- `とて侍共皆帰されけり
- `実にはさせる事をも聞き出だされざりけれども今朝父を諫め申されける詞に従つて父子軍をせんとにはあらねども我が身に勢ひの付く付かぬかのほどをも知りかうして入道相国の謀反の心も和らぎ給ふかとの謀とぞ聞えし
- `君君たらずといふとも臣以て臣たらずんばあるべからず
- `父父たらずといふとも子以て子たらずんばあるべからず
- `君の為には忠ありて父の為には孝あれ
- `と文宣王の宣ひけるには違はず
- `君ものこの由聞し召して
- `今に始めぬ事なれども内府が心の内こそ恥づかしけれ
- `怨をば恩を以て報ぜられたり
- `とぞ仰せける
- `果報こそめでたうて大臣の大将にこそ至らめ
- `容儀帯佩人に勝れ才智才覚さへ世に超えたるべしやは
- `とぞ時の人々感じ合はれける
- `国に諫むる臣あればその国必ず安く家に諫むる子あればその家必正し
- `と云へり
- `上代にも末代にも有難かりし大臣なり