九二五阿古屋松
原文
- `新大納言一人にも限らず警めを蒙る輩多かりき
- `近江中将入道蓮浄佐渡国山城守基兼伯耆国式部大輔正綱播磨国宗判官信房阿波国新平判官資行は美作国とぞ聞えし
- `折節入道相国福原の別業におはしけるが同じき二十日摂津左衛門盛澄を使者にて門脇宰相の許へ
- `丹波少将を急ぎこれへたび候へ
- `尋ぬべき旨あり
- `と宣ひ遣はされたりければ宰相
- `さらばただありし時ともかくもなりたりせばいかがせん
- `今更また物を思はせんずる事の悲しさよ
- `とて福原へ下り給ふべき由を宣ひければ少将泣く泣く出で立たれけり
- `北方以下の女房達は
- `叶はぬもの故になほも宰相のよきやうに申されよかし
- `とぞ嘆き合ひ悲しみ合はれければ宰相
- `存ずるほどの事をば申しつ
- `今は世を捨てんより外はまた何事をか申すべき
- `さりながら何処の浦におはせよ我が命のあらん限りは訪ひ奉るべし
- `とぞ宣ひける
- `少将は今年三つになり給ふ幼き人のおはしけれども日比は若き人にて君達などの事をばさしも細やかもおはせざりしかども今はの時にもなりぬればさすが心にや懸かられけん
- `幼き者を今一度見ばや
- `と宣へば乳母抱いて参りたり
- `少将膝の上に置き髪掻き撫で涙をはらはらと流いて
- `あはれ汝七歳にならば男になして君へ参らせんとこそ存ぜしか
- `されども今は云ふかひなし
- `もし命生きて生ひ立ちたらば法師になりて我が後の世をよく弔へよ
- `と宣ひける
- `未だ幼き心に何事をか聞き分け給ふべきなれどもうち頷き給へば少将を始め参らせて母上乳母の女房その座に幾らも並み居給へる人々心あるも心なきも皆袖をぞ濡らされける
- `福原の御使
- `今夜鳥羽まで出ださせ給ふべき
- `由を申す
- `少将
- `幾ほども延びざらん物故に今宵ばかりは都の内にて明かさばや
- `と宣へどもいかにも叶ふべまじき由を頻りに申しければ力及ばずその夜鳥羽へぞ出でられける
- `宰相あまりの物憂さに今度は参りも具し給はず少将ばかりぞ出だされたる
- `同じき二十二日福原へ下り着き給ひたりしかば入道相国備中国の住人瀬尾太郎兼康に仰せて備中国へぞ流されける
- `兼康も宰相の還り聞き給はんずるところを恐れて道すがらやうやうに労り参らせけれども少将も慰み給ふ心地もし給はず夜昼ただ仏の御名をのみ唱へて父の事をぞ祈られける
- `さるほどに新大納言成親卿は備前の児島におはしけるを預りの武士難波次郎経遠これは舟着き近うて悪しかりなんとて地へ渡し奉り備前備中の境庭瀬郷有木の別所といふ所にぞ置き奉る
- `備中の瀬尾と有木の別所の境は出間僅かに五十町に足らぬ所なれば少将さすが其方の風も懐しうや思はれけんある時兼康を召して
- `これより大納言殿の御渡りあるなる備中の有木の別所とかやへはいかほどの道ぞ
- `と問ひ給へば兼康すぐに知らせ奉りては悪しかりなんとや思ひけん
- `片道十二三日にて候ふ
- `と申す
- `その時少将涙をはらはらと流いて
- `日本は昔三十三箇国にてありしを中比六十六箇国には分けられたなり
- `さ云ふ備前備中備後も元は一国にてありけるなり
- `また東に聞ゆる出羽陸奥両国も昔は六十六郡が一国なりしを十二郡を割き分かつて後にこそ出羽国とは立てられたなり
- `されば実方中将奥州へ流されし時当国の名所阿古屋の松を見んとて国の内を尋ねて空しう帰らんとしけるが道にてある老翁に行き逢ひたり
- `中将老翁の袖を控へて
- `やや御辺は古人とこそ見れ当国の名所に阿古屋の松や知りたる
- `と問ふに
- `全く国の内には候はず
- `出羽国にや候ふらん
- `と申しければ
- `さては汝も知ざりけり
- `今は世の末になりて国の名所をもはや呼び失ひてけるにこそ
- `とて既に過ぎんとし給へば老翁中将の袖を控へて
- `あはれ君は
- `みちのくのあこやの松に木がくれていづべき月のいでもやらぬか
- `といふ歌の心を以て当国の名所阿古屋の松とは御尋ね候ふか
- `それは昔両国が一国なりし時詠み侍る歌なり
- `十二郡を割き分かつて後は出羽国にぞ候ふらん
- `と申しければさらばとて実方中将も出羽国に越えてこそ阿古屋の松をば見てけれ
- `筑紫の太宰府より都へ鰚の使の上るこそ歩路十五日とは定めたれ
- `既に十二三日と申すはこれより殆ど鎮西へ下向ごさんなれ
- `遠しといふとも備前備中の間は両三日にはよも過ぎじ
- `近いを遠う申すは父大納言殿の御渡あるなる所を成経に知らせじとてこそ申すらめ
- `とてその後は恋しけれども問ひ給はず