一〇二六新大納言死去
原文
- `さるほどに法勝寺執行俊寛僧都丹波少将成経平判官康頼この三人をばまた薩摩潟鬼界島へぞ流されける
- `件の島は都を出でて遥々と波路を凌いで行く所なれば朧げにては船も通はず島には人稀なりけり
- `自づから人はあれども色黒うして牛の如し
- `身には頻りに毛生ひつつ云ふ詞をも聞き知らず
- `男は烏帽子も着ず女は髪も下げず
- `衣裳なければ人にも似ず
- `食する物もなければただ殺生をのみ先とす
- `賤が山田を返さねば米穀の類もなく園の桑を採らざれば絹綿の類もなかりけり
- `島の内には高き山あり
- `常しなへに火燃え硫黄といふ物満ち満てり
- `かるが故に硫黄島とも名付けたれ
- `雷常に鳴り上り鳴り下り麓には雨繁く一日片時も人の命の堪へてあるべき様はなし
- `新大納言は少し寛ぐ事もやと待たれけれども子息丹波少将も薩摩潟鬼界島へ流されぬと聞きて今は何事をか期すべきとて出家の志の候ふ由を便りに付けて小松殿へ申されければ法皇に伺ひ申して御免ありけり
- `やがて出家し給ひぬ
- `栄花の袂を引き替へて憂き世を余所に墨染の袖にぞ窶れ給ひける
- `大納言の北方は都の北山雲林院の辺に忍うでおはしけるがさらぬだに住み馴れぬ所は物憂きに況して忍ばれければ過ぎ行く月日も明かしかね暮らし煩ふ様なりけり
- `女房侍多かりけれども或いは世を恐れ或いは人目を慎むほどに問ひ訪ふ者一人もなし
- `されどもその中に源左衛門尉信俊といふ侍ばかりこそ情ある者にて常に訪ひ奉る
- `ある時北方信俊を召して
- `まことやこれには備前の児島におはしけるがこのほどは有木の別所とかやにまします由聞ゆなり
- `いかにもしてはかなき筆の跡をも奉り御返事をも今一度見ばやと思ふはいかに
- `と宣へば信俊涙をはらはらと流いて
- `幼少より御憐を蒙り片時も離れ参らせず召され参らせし御声耳に留まり諫められ参らせし御詞も肝に銘じて片時も忘るる事も候はず
- `西国へ御下り候ひし時も御供仕るべう候ひしかども六波羅より許されなければ力及び候はず
- `今度たとひいかなる憂き目にも逢ひ候へ御文賜はつて参り候はん
- `とぞ申しければ北方斜めならず悦びやがて書いてぞ賜うでける
- `若君姫君も面々に御文あり
- `信俊これを賜はつて遥々と有木の別所へ尋ね下りまづ預りの武士難波次郎経遠に案内を云ひ入れたりければ経遠志のほどを感じてやがて御見参に入れてけり
- `大納言入道殿は只今しも都の事をのみ宣ひ出だし嘆き沈んでおはしけるところに
- `京より信俊が参りて候ふ
- `と申しければ
- `大納言起き上がつて
- `いかにやいかに夢かや現かこれへ
- `とぞ宣ひける
- `信俊御側近う参つて御有様を見奉るにまづ御住まひの物憂さはさる御事にて墨染の御袖を見奉るにぞ目も眩れ心も消えてぞ覚えたる
- `さてしもあるべき事ならねば北方の仰せ蒙りし次第細々と語り申し御文取り出で奉る
- `これを開けて見給ふに水茎の跡は涙に掻き暮れてそこはかとは見えねども
- `幼き人々のあまりに恋ひ悲しませ給ふ有様我が身も尽きせぬ物思ひに堪へ忍ぶべうもなし
- `など書かれたれば
- `日比の恋しさは事の数ならず
- `とぞ悲しみ給ひける
- `かくて四五日も過ぎしかば信俊
- `これに候ひて御最後の御有様をも見参らせん
- `と申しければ預りの武士いかにも叶ふまじき由を申す間大納言は
- `幾ほども延びざらんもの故にただ疾う帰れ
- `とこそ宣ひけれ
- `御返事書いて賜うたりければ信俊これを賜はつて
- `またこそ参り候はめ
- `とて暇申して出ければ大納言
- `汝がまた来ん度を待ちつくべしとも覚えねどあまりに慕はしう覚ゆるに暫し暫し
- `と宣ひて度々呼びぞ返されける
- `さてしもあるべき事ならねば信俊涙を押さへつつ都へ帰り上りけり
- `北方に御返事取り出だいて奉る
- `これを開けて見給へばはや御様変へさせ給ひたりと思しくて御髪の一房文の奥にありけるを二目とも見給はず
- `形見こそ中々今はあだなれ
- `とて引き被いてぞ臥し給ふ
- `若君姫君も声も惜しまずに喚き叫び給ひけり
- `さるほどに同じき八月十九日大納言入道殿をば備前備中の境吉備の中山有木の別所にてぞつひに失ひ奉る
- `その最期の有様やうやうにぞ聞えける
- `始めは酒に毒を入れて進らせけれども叶はざりければ二丈ばかりありける下に菱を植ゑて突き落し奉れば菱に貫かつてぞ失せられける
- `無下にうたてき事共なり
- `例し少なうぞ聞えし
- `北方はこの由を伝へ聞き給ひて今は何をかは期すべきとてやがて菩提院といふ寺におはして様を変へ形の如くの仏事を営み給ふぞ哀れなる
- `この北方と申すは山城守敦方の娘後白河法皇の御思ひ人並びなき美人にておはしけるをこの大納言有難き御寵愛の人にて下し賜はられたりけるとかや
- `若君姫君も面々に花を手折り閼伽の水を結んで父の後世を弔ひ給ふぞ哀れなる
- `かくて時移り頃去つて後世の変はり行く有様はただ天人の五衰に異ならず