一一二七徳大寺厳島詣
原文
- `ここに徳大寺大納言実定卿は平家の次男宗盛卿に大将を越えられて暫く世のならんやうを見んとて大納言を辞して籠居しておはしけるが
- `出家せん
- `と宣へば御門の上下皆嘆き合ひ悲しび合はれけり
- `その中に藤蔵人大夫重兼といふ諸大夫あり
- `諸事に心得たる人にておはしけるがある月の夜徳大寺殿南面の御格子上げさせ月に嘯いておはしけるところに藤蔵人参りたり
- `誰そ
- `と宣へば
- `重兼候ふ
- `夜は遥かに更けぬらん
- `いかに只今何事ぞ
- `と宣へば
- `今夜月冴えよろづ心の澄み候ふままに参つて候ふ
- `と申す
- `徳大寺殿
- `神妙なり
- `何とやらん今宵は世に徒然なるによ
- `とぞ宣ひける
- `さて昔今の物語どもし給ひて後大納言宣ひけるは
- `つらつら平家の繁盛する有様を見るに嫡子重盛次男宗盛左右の大将にてあり
- `やがて三男知盛嫡孫維盛もあるぞかし
- `かれもこれも次第にならば他家の人々いつ大将をいつ当たり付くべしとも覚えず
- `されば終の事なり
- `出家せん
- `とぞ宣ひける
- `藤蔵人涙をはらはらと流いて
- `君の御出家候はば御内の上下皆惑ひ者となり候ひなんず
- `重兼珍しき事を案じ出だして候へ
- `安芸の厳島をば平家斜めならず崇め敬まはれ候ふ
- `御参り候へかし
- `かの社には内侍とて優なる舞姫共多く候ふなれば珍しく思ひ参らせてもてなし参らせ候はんずらん
- `何事の御祈誓やらん
- `と尋ね申し候はばありのまま仰せ候ふべし
- `一七日ばかり籠らせ給ひてさて御下向の時宗徒の内侍一両人召し具せさせ給ひて候はば定めて西八条の亭へぞ参り候はんずらん
- `入道
- `何事ぞ
- `と尋ね申され候はばありのままにぞ申し候はんずらん
- `入道極めて物愛でし給ふ人なればさるべき計らひもあんぬと覚え候ふ
- `と申しければ徳大寺殿
- `これこそ思ひも寄らざりつれ
- `さらばやがて参らん
- `とて俄に精進始めつつ厳島へぞ参られける
- `げにも優なる舞姫共多かりけり
- `当社へは我等が主の平家の君達こそ御参り候ふにこれにぞ珍しき御参りにて候へ
- `とて宗徒の内侍十余人付き添ひ奉りて夜昼やうやうにもてなし奉る
- `さて内侍共
- `何事の御祈誓やらん
- `と尋ね候へば
- `大将を人に越えられてその祈りの為なり
- `とぞ宣ひける
- `一七日参籠あつて神楽を奏し風俗催馬楽歌はる
- `舞楽も三箇度までありけり
- `さて御下向の時宗徒の内侍十余人船を為立てて一日路を送り奉る
- `徳大寺殿
- `あまりに名残惜しきに今一日路二日路
- `と宣ひ都までこそ具せられけれ
- `徳大寺の亭へ入れさせおはしましやうやうにもてなし様々の御引出物賜うで帰されけり
- `さて内侍共
- `これまで上りたらんずるにいかでか我等が主の平家へ参らであるべき
- `とて西八条殿へぞ参じたる
- `入道やがて出会ひ対面あつて
- `いかに内侍共は何事の列参ぞや
- `と宣へば
- `徳大寺殿の厳島へ御参り候ふほどに我等が船為立てて一日路送り参らせて候へば徳大寺殿
- `あまりに名残惜しきに今一日路二日路
- `と仰せられてこれまで召し具せられて候ふ
- `と申す
- `いかに徳大寺は何事の祈誓に厳島へは参られけるやらん
- `と問はれければ
- `大将を人に越えられてその祈りの為なり
- `とこそ仰せられ侍りつれ
- `と申しければその時入道うち頷いて
- `王城にさしも灼なる霊仏霊社の幾らもましますを差し置いて浄海が崇め奉る厳島へ遥々と参られけるこそいとほしけれ
- `これほどに切ならん上は
- `とて嫡子重盛内大臣左大将にてましましけるを辞せさせ奉り次男宗盛大納言の右大将にておはしけるを越えさせて徳大寺を左大将にぞ成されける
- `あはれ賢き計らひかな
- `新大納言もかやうの謀をばし給はで由なき謀反起いて我が身も子孫も滅びぬるこそうたてけれ