一五三一卒都婆流
原文
- `さるほどに二人の人々常は三所権現の御前に通夜する折もありけり
- `ある夜通夜して終夜今様歌はれけるが暁方苦しさにちとうち微睡みたりつる夢に沖より白い帆懸けたる舟を一艘汀へ向いて漕ぎ寄せさせ紅の袴着たりける女房二三十人渚に上がり鼓を打ち声を調へて
- `よろづの仏の願よりも千手の誓ひぞ頼もしき
- `枯れたる草木も忽ちに花咲き実生るとこそ聞け
- `と押し返し押し返し三返歌ひ澄まして掻き消すやうにぞ失せにける
- `康頼入道夢覚めて後奇異の思ひをなして
- `いかさまにもこれは龍神の化現と覚え候ふ
- `三所権現の内に西御前と申すは本地千手観音にておはします
- `龍神は即ち千手の二十八部衆のその一つにてましませば以て御納受こそ頼もしけれ
- `ある夜また二人通夜同じう微睡みたりつる隙に沖よりも吹き来る風に二人の袂に木の葉を二つ吹き懸けたり
- `何となう取りて見ければ御熊野の梛の葉にてぞありける
- `かの二つの梛の葉に一首の歌を虫食ひにこそしたりけれ
- `ちはやぶる神に祈りのしげければなどかみやこへ帰らざるべき
- `康頼入道は故郷の恋しさのあまりにせめての謀にや千本の卒都婆を作り阿字の梵字年号月日仮名実名二首の歌をぞ書き付けける
- `さつまがた沖の小島に我ありと親にはつげよ八重のしほ風
- `思ひやれしばしとおもふたびだにもなほふる里は恋しきものを
- `これを浦に持て出でて
- `南無帰命頂礼梵天帝釈四大天王堅牢地神王城の鎮守諸大明神別しては熊野権現安芸厳島の大明神せめては一本なりとも都へ伝へて給べ
- `とて沖津白波寄せては帰る度毎に卒都婆を海にぞ浮かべける
- `卒都婆は作り出だすに従つて海に入れければ日数の積もれば卒都婆の数も積りけり
- `その思ふ心や便りの風ともなりたりけんまた神明仏陀もや送らせ給ひたりけん千本の中に一本安芸国厳島大明神の御前の渚に打ち上げたり
- `ここに康頼入道がゆかりありける僧のもし然るべき便りもあらばかの島へ渡つてその行方をも尋ねんとて西国修行に出でたりけるがまづ厳島へぞ参りける
- `ここに宮人と思しくて狩衣装束なる俗一人寄り合うたり
- `この僧何となう物語をしけるほどに
- `それは和光同塵の利生様々なりとは申せどもこの御神いかなる因縁を以て海漫の鱗に縁をば結ばせ給ふらん
- `と問ひ奉れば
- `これはよな娑竭羅龍王の第三の姫宮胎蔵界の垂迹なり
- `この島に御影向ありし初めより済度利生の今に至るまで甚深奇特の事共をぞ語りける
- `さればにや八社の御殿甍を並べ社は海神の辺なれば潮の満乾に月ぞすむ
- `潮満ち来れば大鳥居緋の玉垣瑠璃の如し
- `潮引きぬれば夏の夜なれども御前の白洲に霜ぞ置く
- `この僧いよいよ尊く覚えて居たりけれど漸う日暮れ月差し出でて潮の満ち来るにそこはかとなく揺られ寄りける藻屑共の中に卒都婆の見えけるを何となうこれを取つて見ければ
- `沖の小島に我あり
- `と書き流せる言の葉なり
- `文字をば彫り入れ刻み付けたりければ波にも洗はれず鮮々としてこそ見えたりけれ
- `この僧不思議の思ひをなして笈の肩に挿して都へ帰り上れば康頼が老母の尼公妻子共の一条の北紫野といふ所に忍びつつ住みけるにこれを見せたりければ
- `さらばこの卒都婆が唐土の方へも揺られ行かずして何しにこれまで伝へ来て今更ものを思はすらん
- `とぞ悲しみける
- `遥かの叡聞に及んで法皇これを叡覧ありて
- `あな無慙この者共は未だ生きてあるにこそ
- `とて御涙を流させ給ふぞ忝き
- `これを小松大臣の許へ遣はされたりければ父の禅門に見せ奉る
- `柿本人丸は島隠れ行く舟を思ひ山辺赤人は芦辺の田鶴を眺めつつ住吉明神は片削ぎの思ひをなし三輪明神は杉立てる門を指す
- `昔素盞嗚尊三十一字の倭歌を始め給ひしより以来諸々の神明仏陀もかの詠吟を以て百千万端の思ひを述べ給へり
- `入道相国も岩木ならねば世に哀れにこそ宣ひけれ