一六三二蘇武
原文
- `入道相国の憐れみ給ふ上は京中の上下老いたるも若きも
- `鬼界島の流人の歌
- `とて口遊まぬはなかりけり
- `千本まで作り出だせる卒都婆なればさこそは小さうもありけめ薩摩潟より遥々と都まで伝はりけるこそ不思議なれ
- `あまりに思ふ事にはかう験ありけるにや
- `古漢王胡国を攻められけるに初め李少卿を大将軍にて三十万騎向けられる
- `漢の戦ひ弱くして胡国の軍強くして剰へ大将軍李少卿をば胡国の為に生捕にせらる
- `次に蘇武を大将にて五十万騎を向けらる
- `また漢の軍弱く胡の軍勝ちにけり
- `兵六千余人生捕にせらる
- `その中に大将軍蘇武を始めとして宗徒の兵六百三十余人選り出で一々に片足を切つて逐ひ放つ
- `即ち死する者もありほど経て死ぬる者もあり
- `その中に大将軍蘇武は一人死なざりけり
- `片足なき身となつて山に上つて木の実を拾ひ里に出でて根芹を摘み秋は田面の落穂拾ひなどして露の命を過ぐしける
- `田に幾らもありける雁共蘇武に見慣れて恐れざりければ
- `これらは我が故郷へ通ふ者ぞ
- `と懐しさに思ふ事一筆書きて
- `相構へてこれ漢王に得させよ
- `と云ひ含め雁の羽に結び付けてぞ放ちける
- `かひがひしくもたのもの雁秋は必ず越路より都へ来る者なれば漢の昭帝上林苑に御遊ありしに夕されの空薄曇り何となう物哀れなりける折節一行の雁飛び渡る
- `その中より雁一つ飛び下がつて己が羽に結び付けたる玉章を食ひ切つてぞ落しける
- `官人これを取つて帝へ参らせたりければ開いて叡覧あるに
- `昔は巌窟の洞に籠められて三春の愁嘆を送り今は広田の畝に捨てられて胡敵の一足となれり
- `たとひ屍は胡の地に散らすといふとも魂は二度君辺に仕へん
- `とぞ書いたりける
- `それよりしてこそ文をば
- `雁書
- `とも云ひ
- `雁札
- `とも名付けけり
- `あな無慙蘇武が誉れの跡なりけり
- `胡国に未だあるにこそ
- `とて今度は李広といふ将軍に仰せて百万騎を向けらる
- `今度は漢の戦ひ強く胡国の軍敗れにけり
- `御方戦ひ勝ちぬと聞えしかば蘇武は広野の中より這ひ出でて
- `これこそ古の蘇武よ
- `と名乗る
- `片足は無き身となつて十九年の星霜を送り輿に舁れて旧里へ帰る
- `蘇武は十六の歳胡国へ向けられし時帝より下し賜はつたりける旗をば何としてかは持ちたりけんこの十九年が間巻いて身を放たず
- `今取り出でて帝に奉る
- `君も臣も感嘆斜めならず
- `蘇武は君の御為に大功双びなかりしかば大国数多賜はつてその上典属国といふ司を下されけるとぞ聞えし
- `李少卿は胡国に留つてつひに帰らず
- `いかにもして漢朝へ帰らばやと嘆きけれども胡王許さねば力及ばず
- `漢王これをば知り給はで
- `李少卿は不忠なる者ぞかし
- `とて空しくなれる二親が屍を掘り起して打たせらる
- `李少卿この由を伝へ聞きて恨み深うなりにける
- `さりながらもなほ故郷を恋ひつつ全く不忠なき由を一巻の書に作つて漢朝へ送りたりければ
- `不便なりけるごさんなれ
- `とてはかなくなりける父母が屍を打たせられたりける事をのみ悔しみ給ひける
- `漢家の蘇武は書を雁の羽に付けて旧里へ送り本朝の康頼は波の便りに歌を故郷へ伝ふ
- `かれは一筆のすさみこれは二首の歌かれは上代これは末代胡国鬼界島境を隔てて世々は変はれども風情は同じ風情有難かりし事共なり