六三八頼豪
原文
- `白河院御在位の時京極大殿の御娘后に立たせ給ふ事ありけり
- `賢子の中宮とて御最愛ありしかば主上この御腹に皇子御誕生あらまほしう思し召してその比三井寺に有験の僧と聞ゆる頼豪阿闍梨を召して
- `汝この后の腹に皇子御誕生祈り申せ
- `御願成就せば所望は乞ふによるべし
- `とぞ仰せ下さる
- `頼豪畏り承つて三井寺に帰り百日肝胆を砕いて祈りければ中宮やがて御懐妊ありて承保元年十二月十六日御産平安皇子御誕生ありけり
- `主上斜めならず御感ありて頼豪阿闍梨を内裏へ召して
- `さて汝が所望はいかに
- `と仰せければ三井寺に戒壇建立の由を奏聞す
- `一階僧正などの事をも申さんずるかとこそ思し召つるにこれこそ存知の外の所望なれ
- `凡そ皇子誕生ありて祚を継がしめんも海内無為を思し召す御故なり
- `今汝が所望を達せば山門憤つて世上も静かなるべからず
- `両門共に合戦せば天台の仏法滅びなんず
- `とて聞し召しも入れざりけり
- `頼豪
- `こは口惜しき事にこそあんなれ
- `とて急ぎ三井寺に走り帰りて干死にせんとす
- `主上大きに驚かせ給ひて江帥匡房卿その比は未だ美作守と聞えしを召して
- `汝は頼豪に師檀の契りなれば行きて拵へてみよ
- `と仰せければ畏れ承つて急ぎ三井寺に行き向かひ頼豪阿闍梨が宿坊に行きて勅諚の趣仰せ含めんとすれば以ての外に燻ぼつたる持仏堂に楯て籠り恐ろしげなる声して
- `天子には戯れの詞なし綸言汗の如しとこそ承つて候へ
- `これほどの所望叶はざらんに於いては我祈り出だし奉りたる皇子なれば取り奉りて魔道へこそ行かんずらめ
- `とてつひに対面もせざりけり
- `美作守帰り参りてこの由を奏聞せられければ主上御嘆き斜めならず
- `頼豪つひに干死にに死にけり
- `さるほどに皇子御悩つかせ給ひてうち臥させ給ひしかば様々御祈共ありけれども叶ふべしとも見えさせ給はず
- `白髪なる老僧の錫杖を持つて常は皇子の御枕に佇むと人々の夢にも見え現にも立ちけり
- `恐ろしなどもおろかなり
- `承暦元年八月六日皇子御年四歳にてつひに隠れさせ給ひぬ
- `敦文親王これなり
- `主上斜めならず御嘆きありてその比また山門に西京の座主良信大僧正その時は未だ円融坊僧都と聞えしを内裏へ召して
- `こはいかに
- `と仰せければ
- `何時もかやうの御願は我が山の力にて成就する事では候へ
- `されば九条右丞相師輔公も慈恵大僧正に御契り申させ給ひてこそ冷泉院の皇子御誕生は候ひしか
- `安いほどの御事候ふ
- `とて山門に帰りて百日肝胆を砕いて祈られければ中宮やがて百日の内に御懐妊あつて承暦三年七月九日御産平安皇子御誕生ありけり
- `堀川天皇これなり
- `怨霊はかく昔も恐ろしかりし事共なり
- `今度さしもめでたき御産に非常の大赦行はれたりといへどもこの俊寛僧都一人赦免なかりけるこそうたてけれ
- `同じき十二月八日皇子東宮に立たせ給ふ
- `傅には小松内大臣大夫には池中納言頼盛卿とぞ聞えし
- `さるほどに今年も暮れて治承も三年になりにけり