八四〇有王島下
原文
- `さるほどに鬼界島の流人二人は召し返されて都へ上りぬ
- `一人憂かりし島の島守と成りにけるこそうたてけれ
- `僧都の幼うより不便にして召し使はれける童あり
- `名をば有王とぞ申しける
- `鬼界島の流人共今日既に都へ入ると聞えしかば有王鳥羽まで行き向かつて見けれども我が主は見え給はず
- `いかに
- `と問へば
- `それはなほ罪深しとて島に残され給ひぬ
- `と聞いて心憂しなどもおろかなり
- `常は六波羅の辺に佇み歩いて聞きけれどもいつ赦免あるべしとも聞き出ださず
- `僧都の御娘の忍うでおはしける所へ参つて
- `この瀬にも洩れさせ給ひて御上りも候はず
- `今はいかにもしてかの島へ渡つて御行方をも尋ね参らせんばやと存じ候ふ
- `御文賜はつて参り候はん
- `と申しければ姫御前斜めならずに悦びやがて書きてぞ賜うでける
- `暇を乞ふともよも許さじとて父にも母にも知らせず唐船の纜は卯月皐月に解くなれば夏衣立つを遅くや思ひけん弥生の末に都を立つ
- `多くの波路を凌ぎつつ薩摩潟へぞ下りける
- `薩摩よりかの島へ渡る船津にて有王をや人怪しめ着たる物を剥ぎ取りなどしけれども少しも後悔せず
- `姫御前の御文ばかりぞ人に知らせじと髻結の中には隠しける
- `さて商人舟に乗つて件の島へ渡つて見るに都にて幽かに伝へ聞きしは事の数ならず
- `田もなし畑もなし村もなし里もなし
- `自づから人はあれども云ふ詞も聞き知らず
- `有王島の者に行き向かつて
- `物申さう
- `と云へば
- `何事
- `と答ふ
- `これに都より流れされ給ひたる法勝寺の執行御房と申す人やおはします
- `と問ふに法勝寺とも執行とも知つたらばこそ返事はせめただ頭を振つて
- `知らず
- `と云ふ
- `その中にある者が心得て
- `いさとよそれは三人これにありしが二人は召し返され都へ上りぬ
- `いま一人は残されて彼処此処よと迷ひ歩きしがその後は行方をも知らず
- `とぞ云ひける
- `山の方の覚束なさに遥かに分け入り峰に攀ぢ谷に下れども白雲跡を埋んで往来の道も定かならず
- `青嵐夢を破つてはその面影も見えざりけり
- `山にてはつひに尋ね逢はず
- `海の辺に着いて尋ぬるに沙頭に印を刻む鴎沖の白洲に集く浜千鳥の外は跡訪ふ者もなかりけり
- `ある朝磯の方より蜻蛉などの如くに痩せ衰へたる者一人よろぼひ出で来たり
- `元は法師にてありけりと覚えて髪は空様へ生ひ上がりよろづの藻屑取り付いて荊を戴いたるが如し
- `継目顕れて皮ゆたひ身に着たる物は絹布の分きも見えず
- `片手には魚を持ち歩むやうにはしけれどもはかも行かずよろよろとしてぞ出で来たる
- `都にて多くの乞丐人は見しかどもかかる者をば未だ見ず
- `諸阿修羅等故在大海辺
- `とて
- `修羅の三悪四趣は深山大海の辺にあり
- `と仏の説き置き給ひたれば我知らず餓鬼道などへ尋ね来たるか
- `とぞ覚えたる
- `はやかれもこれも次第に歩み近づく
- `もしかやうの者にても我が主の御行末知つたる
- `と
- `物申さう
- `といへば
- `何事
- `と答ふ
- `これに都より流され給ひたりし法勝寺執行御房と申す人やまします
- `と問ふに童こそ見忘れたれども僧都はいかで忘れ給ふべきなれば
- `これこそそよ
- `と宣ひも敢へず手に持てる物を投げ捨て沙の上にぞ倒れ臥す
- `さてこそ我主の御行末とは知りてけれ
- `僧都やがて消え入り給ふを有王の上に掻き載せ奉り
- `多くの波路を凌ぎつつ遥々とこれまで尋ね参りたるかひもなくいかにやがて憂き目をば見んとはせさせ給ひ候ふぞ
- `さめざめと掻き口説きければ僧都少し人心地出で来扶け起され
- `まことに汝多くの波路を凌ぎつつ遥々これまで参りたるこそ神妙なれ
- `ただ明けても暮れても都の事をのみ思ひ居たれば恋しき者共が面影を夢に見る折もありまた幻に立つ時もあり
- `身もいたう疲れ弱つて後は夢も現も思ひ分かず
- `今汝が来たれるをもただ夢とのみこそ覚ゆれ
- `もしこの事夢なりなば覚めての後はいかがせん
- `有王
- `こは現にて候ふなり
- `さてもこの御有様にて今まで御命の延びさせ給ひたるこそ不思議には覚え候へ
- `と申しければ
- `いさとよこれは去年少将や判官入道が迎ひの時その瀬に身をも投ぐべかりしを由なき少将の
- `今一度都の音信をも待てかし
- `など慰め置きしをおろかにもしやと頼みつつ
- `長らへん
- `とはせしかどもこの島には人の食物絶えて無き所なれば身に力のありしほどは山に上つて硫黄といふ物を堀り九国より通ふ商人に逢ひ食物に換へなどせしかども日に添へて弱り行けば今はさやう業も得ず
- `かやうに日の長閑なる時は磯に出でて網人釣人に手を擦り膝を屈めて魚を貰ひ潮干の時は貝を拾ひ荒海布を採り磯の苔に露の命を懸けてこそ憂きながら今日までは長らへたれ
- `さらでは憂き世を渡るよすがをばいかにしつらんとか思ふらん