一二四四無文
原文
- `天性この大臣は不思議の人にて未来の事をも予て悟り給ひけるにや去んぬる四月七日の夢に見給ひたりける事こそ不思議なれ
- `たとへばある浜路を遥々と歩み行き給ふほどに傍らに大きなる鳥居のありけるを大臣夢の内に
- `あれはいかなる御鳥居やらん
- `と問ひ給へば
- `春日大明神の御鳥居なり
- `とぞ申しける
- `人群集したり
- `その中より大いなる法師の首を太刀の先に貫き高く差し上げたるを大臣
- `何者の首ぞ
- `と宣へば
- `平家太政入道殿
- `悪行超過せるによつて当社大明神の召し捕らせ給ひて候ふ
- `と申すと覚えて夢覚めぬ
- `当家は保元平治より以来度々の朝敵を平らげ勧賞身に余り帝祖太政大臣に至り一族の昇進六十余人二十余年の以来は楽しみ栄えまた立ち並ぶ人もなかりつるに入道の悪行によつて当家の運命の末なるにこそ
- `と思し召して御涙を流させ給ふ
- `折節妻戸をほとほとと打ち叩く
- `大臣
- `何者ぞあれ聞け
- `と宣へば
- `瀬尾太郎兼康が今夜あまりに不思議の事を見候ひて申し上げんが為に夜の明くるは遅う覚えて参つて候ふ
- `御前の人を遥かに退けられ候へ
- `とて人を退けて対面ありけり
- `大臣御覧ぜられける夢に少しも違はず具さに語り申したりければ
- `さてこそ兼康は神にも通じたる者かな
- `とぞ大臣も感じ給ひける
- `その翌朝嫡子権亮少将維盛院へ参らんとて出で立たれけるを大臣呼び奉りて
- `人の親のかやうの事申すは烏滸がましけれども御辺は人の子には勝れて見え給へり
- `あれ少将に酒勧めよ
- `と宣へば筑後守貞能御酌に参る
- `これをば少将にこそ賜ぶべけれども親より先にはよも給はらじ
- `とて大臣三度酌んでその後少将にぞ差されける
- `少将また三度受け給ふ時
- `あれ少将に引出物せよ
- `と宣へば畏り承つて錦の袋に入れたる御太刀を一つ持て参りたり
- `少将
- `これは家に伝はる小烏といふ太刀やらん
- `と嬉しげに見給へばさはなくして大臣葬の時用ふる無文の太刀なり
- `その時少将気色変はつて見給へば大臣涙をはらはらと流い給ひて
- `それは貞能が咎にはあらず
- `大臣葬の時帯いて供する用ふる無文といふ太刀なり
- `日比は入道殿いかにも成り給はば重盛帯いて供せんこそ存ぜしか
- `今は重盛入道殿に先立ち奉らんずれば御辺に賜ぶなり
- `とぞ宣ひける
- `少将とかうの返事にも及び給はず涙を押さへて宿所に帰りその日は出仕もし給はず引き被いてぞ臥し給ふ
- `その後大臣熊野へ参り下向して幾ばくの日数を経ずして病づいて失せ給ひけるにこそげにもと思ひ知られけれ