原文
- `さるほどに宮は皐月十五夜の雲間の月を眺めさせ給ひて何の行方も思し召し寄らざりけるに三位入道の使者とて文持つて忙しげに出で来たり
- `宮の御乳母子六条亮大夫宗信これを取つて御前へ参り開いて見るに
- `君の御謀反既に顕れさせ給ひて土佐の幡多へ遷し参らすべし
- `とて官人共が別当宣を承つて御迎に参り候ふ
- `急ぎ御所を出ださせ給りて三井寺へ入らせおはしませ
- `入道もやがて参り候はん
- `とぞ書かれたる
- `宮は
- `こはいかがせん
- `と思し召し煩はせ給ふ処に宮の侍に長兵衛尉信連といふ者あり
- `ただ何のやうも候ふまじ
- `女房装束に出でさせ給へ
- `と申しければ
- `この儀然るべし
- `とて御髪を乱り重ねたる御衣に市女笠をぞ召されける
- `六条亮大夫宗信傘を持つて御供仕る
- `鶴丸といふ童袋に物入れて戴いたり
- `たとへば青侍の女を迎へて行くやうに出で立たせ給ひて高倉を北へ落ちさせ給ふに大きなる溝のありけるをいと物軽う越えさせ給へば道行く人立ち留まつて
- `はしたなの女房の溝の越えやうや
- `とて怪しげに見参らせければいとど足早に過ぎさせおはします
- `長兵衛尉信連をば御所の留守にぞ置かれける
- `女房達の少々おはしけるをば彼処此処へ立ち忍ばせて見苦しき物あらば取り認めんとて見るほどにさしも宮の御秘蔵ありける小枝と聞えし御笛を常の御所の御枕に取り忘れさせ給ひたりけるをぞ立ち帰つても取らまほしうや思し召されけん信連これを見付けて
- `あなあさまし
- `君の御秘蔵の御笛を
- `と申していま五町が内で追ひ付いて参らせたり
- `宮斜めならず御感ありて
- `我死なば此笛をば御棺に入れよ
- `とぞ仰せける
- `やがて御供仕れ
- `と仰せければ信連申しけるは
- `只今あの御所へ官人共が御迎に参り候ふなるに人一人も候はざらんは無下に口惜しく存じ候ふ
- `その上あの御所に信連が候ふと申す事をば上下皆知られたる事でこそ候へ
- `今夜候はざらんはそれもその夜は逃げたり
- `など云はれん事弓矢取る身は仮にも名こそ惜しう候へ
- `官人共暫くあひしらひ一方打ち破つてやがて参り候はん
- `とて走り帰る
- `信連がその夜の装束には薄青の狩衣の下に萌黄匂の腹巻を着て衛府の太刀をぞ帯いたりける
- `三条面の惣門をも高倉面の小門をも共に開いて待ちかけたり
- `案の如く源大夫判官兼綱出羽判官光長都合其勢三百余騎十五日の子の刻に宮の御所へぞ向かひける
- `源大夫判官は存ずる旨ありと覚えて遥かの門外に控へたり
- `出羽判官光長は乗りながら門の内にうち入れ庭に控へ大音声を揚げて
- `宮の御謀反既に顕させ給ひて土佐の幡多へ遷し参らせんが為に官人共が別当宣を承つて只今御迎に参つて候ふ
- `疾う疾う急ぎ御出で候へ
- `と申しければ信連大床に立つて
- `当時は御所でも候はず
- `御物詣でに候ふぞ
- `何事ぞ事の子細を申されよ
- `と云ひければ出羽判官
- `何条この御所ならでは何処へか渡らせ給ふべかんなるぞ
- `その儀ならば下部共参つて探し奉れ
- `とぞ申しける
- `信連重ねて
- `物も覚えぬ官人共が申しやうかな
- `乗りながら門の内へ参るだにも奇怪なるに剰へ
- `下部共参つて探し参らせよ
- `とはいかで申すぞ
- `長兵衛尉長谷部信連が候ふぞ
- `近う寄つて過ちすな
- `とぞ云ひける
- `庁の下部の中に金武といふ大力の剛の者打物の鞘を外し信連に目をかけて大床の上へ飛び上る
- `これを見て同隷共十四五人ぞ続いたる
- `信連これを見て狩衣の帯紐引つ切りて捨つるままに衛府の太刀なれども身をば心得て作らせたるを抜き合はせて散々にこそ振舞ひたれ
- `敵は大太刀大長刀で振舞へども信連が衛府の太刀に斬り立てられて嵐に木の葉の散るやうに庭へさつとぞ下りたりける
- `皐月十五夜の雲間の月の現れ出でて明かりけるに敵は無案内なり
- `信連は案内者にてありければ彼処の馬道に追つかけてはたと斬り此処の詰まりに追ひ詰めては丁と斬る
- `いかに宣旨の御使をばかうはするぞ
- `と云ひければ
- `宣旨とは何ぞ
- `とて太刀歪めば躍り退き押し直して踏み直し立ち所によき者共十四五人こそ斬り伏せたる
- `その後太刀の先三寸ばかり打ち折りて捨ててけり
- `腹を切らんと腰を探れども鞘巻落ちて無かりければ力及ばず大手を広げて高倉面の小門より躍り出でんとする所に大長刀持ちたる男一人寄合うたり
- `信連長刀に乗らんと飛んで懸かるが乗り損じて股を縫ひ様に貫かれ心は猛く思へども大勢の中に取り籠られて生捕にこそせられけれ
- `その後御所中を探せども宮は渡らせ給はず信連ばかり搦め六波羅へ率て参る
- `前右大将宗盛卿大床に立つて信連を大庭に引つ据ゑさせ
- `まことに和男は宣旨の御使と名乗るを
- `宣旨とは何ぞ
- `とて斬りたりけるか
- `その上庁の下部共多く刃傷殺害したんなればよくよく糾問して事の子細を尋ね問ひその後河原に引き出だいて首刎ねよ
- `とぞ宣ひける
- `信連もとより勝れたる大剛の者なりければ居直り嘲笑つて申しけるに
- `このほどあの御所を夜な夜な物の窺ひ候ふを何条事のあるべきと思ひ侮つて用心も仕らぬ所に夜半ばかり鎧うたる者共が二三百騎うち入つて候ふを
- `何者ぞ
- `と尋ねて候へば
- `宣旨の御使
- `と申す
- `当時は窃盗強盗山賊海賊など申す奴原が或いは
- `君達の入らせ給ひたるぞ
- `或いは
- `宣旨の御使
- `など名乗り申すとかねがね承つて候ふほどに
- `宣旨とは何ぞ
- `とて斬つたる候ふ
- `凡そは信連の物の具をも思ふ様に仕り鉄よき太刀をも持つて候はんには只今の官人共をばよも一人も安穏では帰し候はじ
- `その上宮の御在所は何処に渡らせ給ひ候ふやらん知り参らせぬ候ふ
- `たとひ知り参らせて候ふとも侍ほどの者の申さじと思ひ切りてん事を糾問に及んで申すべしやは
- `とてその後は物も申さず