原文
- `さるほどに宮は高倉を北へ近衛を東へ賀茂川を渡らせ給ひて如意山へ入らせおはします
- `昔清見原の天皇賊徒に襲はれさせ給ひて吉野山へ入らせ給ひけるにこそ乙女の姿をば仮らせ給ひけるなれ
- `今この宮の御有様もそれには少しも違はせ給ふべからず
- `知らぬ山路を終夜分け入らせ給ふにいつ習はしの御事なれば御足より出づる血は沙を染めて紅の如し
- `夏草の茂みが中の露けさもさこそは所狭う思し召されけめ
- `かくして暁方に三井寺へ入らせおはします
- `かひなき命の惜しさに衆徒を頼んで入御あり
- `と仰せければ大衆畏り悦んで法輪院に御所を設ひ形の如くの供御認めて参らせけり
- `明くれば十六日
- `高倉宮の御謀反起させ給ひて三井寺へ落ちさせ給ふぞや
- `と申すほどこそありけれ京中の騒動斜めならず
- `今三日の内の御悦び
- `とは法皇の鳥羽殿を出ださせ給ふ御事
- `並びに御嘆き
- `とは泰親これをぞ申しける
- `抑もこの源三位入道頼政は年比日比もあればこそありけめ今年いかなる心にて謀反をば起されけるぞ
- `と云ふに平家の次男宗盛の不思議の事をのみし給ひけるによつてなり
- `されば人の世にあればとてすずろに云ふまじき事を云ひすまじき事をするはよくよく思慮あるべき事なり
- `宗盛卿使者を立て
- `聞え候ふ名馬を賜はつて見候はばや
- `と宣ひ遣はされければ伊豆守の返事には
- `さる馬をば持ちて候ひしをこのほどあまりに乗り疲らかして候ふほどに暫く労らせんが為に田舎へ遣はして候ふ
- `と申されければ
- `さらんには力及ばず
- `とてその後沙汰もなかりけるが多く並み居たりける平家の侍共
- `あつぱれその馬は一昨日も候ひつ昨日も見て候ふ今朝も庭乗りし候ひつる
- `など口々に申しければ
- `さては惜しむごさんなれ
- `憎し
- `乞へ
- `とて侍して馳せさせ文などにても一日が内に五六度七八度など乞はれければ三位入道これを聞き伊豆守に向かつて宣ひけるは
- `たとひ金を丸めたる馬なりともそのほどに人の乞はうずるに惜しむべきやうやある
- `その馬速やかに六波羅へ遣はせ
- `とこそ宣ひけれ
- `伊豆守力及ばず一首の歌を書き添へて六波羅へ遣はさる
- `恋しくばきてもみよかし身にそふるかげをばいかではなちやるべき
- `伊豆守この由を伝へ聞き給ひて
- `仲綱が身に代へて思ふ馬なれども権威に就いて取らさるるさへあるに剰へ仲綱が天下の笑はれ草とならんずる事こそ安からね
- `と大きに憤られければ三位入道宣ひけるは
- `何条事のあるべきと思ひ侮づつて平家の人共がさやうの痴事をするにこそあんなれ
- `その儀ならば命生きても何かはせん便宜を窺ふにこそあらめ
- `とて
- `私には思ひも立たれず高倉の宮を勧め申されける
- `とぞ後には聞えし
- `これにつきても天下の人小松大臣の御事をぞ偲び申しける
- `ある時大臣参内の序でに中宮の御方へ参らせ給ふに八尺ばかりありける蛇の大臣の指貫の左の輪を廻りけるを
- `重盛騒がば女房達も騒ぎ中宮も驚かせ給ひなんず
- `と思し召し左の手にて尾を押さへ右の手にて頭を取りて直衣の袖の中へ引き入れちつとも騒がずつい立つて
- `六位や候ふ
- `と召されければ伊豆守仲綱その時は未だ衛府の蔵人にて候はれけるが
- `仲綱
- `と名乗りて参られたるにこの蛇を賜ぶ
- `賜はつて弓場殿を経て殿上の小庭に出つつ御倉の小舎人を招いて
- `これ賜はれ
- `と云はれければ大きに頭を振つて逃げ去りぬ
- `力及ばで我が郎等の競を召してこれを賜ぶ
- `賜はつて捨ててけり
- `その朝小松殿よりよい馬に鞍置いて伊豆守の許へ遣はすとて
- `さても昨日の振舞ひこそ優に優しう候ひつれ
- `これは乗り一の馬で候ふぞ
- `夕べに及んで陣外より傾城の許へ通はれん時用ひらるべし
- `とて遣はさる
- `伊豆守大臣の御返事なれば
- `御馬畏つて賜はり候ひぬ
- `さても昨日の御振舞ひは還城楽にこそ似て候ひしか
- `とぞ申されける
- `さるほどに同じき十六日の夜に入つて源三位入道頼政嫡子伊豆守仲綱次男源太夫判官兼綱六条蔵人仲家其子蔵人太郎仲光以下直甲三百余騎館に火懸け焼き上げて三井寺へこそ参られけれ
- `ここに三位入道の年比の侍に渡辺源三競滝口といふ者あり
- `馳せ後れて留まりたりけるを六波羅へ召して
- `など汝は相伝の主三位入道の供をばせで留まつたるぞ
- `と宣へば競畏つて申しけるは
- `日比は自然の事も候はば真先駆けて命を奉らうとこそ存ぜしか
- `今度はいかが候へるやらんかうとも知らせられざりつる間留まつて候ふ
- `と申す
- `競涙をはらはらと流いて
- `たとひ相伝の誼候ふともいかが朝敵となれる人に道心をば仕り候ふべき
- `ただ殿中に奉公候ふ
- `と申しける
- `大将
- `さらば奉公せよ
- `頼政法師がしけん恩にはちつとも劣るまじきぞ
- `とて入り給ひぬ
- `日も漸う暮れければ大将出でられたり
- `競畏つて申しけるは
- `真や三位入道殿三井寺にと聞え候ふ
- `定めて討手向けられ候はんずらん
- `三位入道の一類渡辺党さては三井寺法師にてぞ候はんずらん
- `罷り向かつて選り討ちなども仕るべきに乗つて事に逢ふべき馬を持ちて候ひしをこのほど渡辺の親しい奴めに盗まれて候ふ
- `御馬一疋下し預り候はばや
- `と申しければ大将
- `尤もさるべし
- `とて白葦毛なる馬の煖廷とて秘蔵せられたりけるによい鞍置いて競に賜ぶ
- `日も漸う暮れければ妻子共をば彼処へ立ち忍ばせて三井寺へと出で立ちける心の内こそ無慙なれ
- `狂紋の狩衣の菊綴大らかにしたるに重代の着背長の緋威の鎧着て星白甲の緒を締め厳物作りの大太刀を帯き二十四差いたる大中黒の矢負ひ滝口の骨法忘れじとや鷹の羽で矧いだりける的矢一手ぞ差し添へたる
- `滋籐の弓持ちて煖廷にうち乗り乗り替へ一騎うち具し舎人男に持楯脇挟ませ館に火懸け焼き上げて三井寺へこそ馳せたりけれ
- `六波羅には
- `競が館より火出で来たり
- `とて犇きけり
- `宗盛卿急ぎ出でて
- `競はあるか
- `と尋ね給ふに
- `候はず
- `と申す
- `すは彼奴めを手延びにして謀られぬるは
- `あれ追つかけて討て
- `と宣へども競は勝れたる大力の剛の者矢継ぎ早の手利きにてありければ
- `二十四差いたる矢ではまづ二十四人は射殺されなんず
- `音なせそ
- `とて続く者こそなかりけれ