一一六二橋合戦
原文
- `さるほどに宮は宇治と寺との間にて六度まで御落馬ありけり
- `これは去んぬる夜御寝成らざりし故なりとて宇治橋三間引き絶やし平等院に入れ奉りて暫し御休息ありけり
- `六波羅には
- `すはや宮こそ南都へ落ちさせ給ふなれ
- `追つ懸けて討ち奉れや
- `とて大将軍には左兵衛督知盛頭中将重衡薩摩守忠教侍大将には上総守忠清其子上総太郎判官忠綱飛騨守景家其子飛騨太郎判官景高高橋判官長綱河内判官秀国武蔵三郎左衛門尉有国越中次郎兵衛尉盛嗣上総五郎兵衛忠光悪七兵衛景清を先として都合その勢二万八千余騎木幡山うち越えて宇治橋の詰にぞ押し寄せたる
- `敵平等院にと見てければ鬨を作る事三箇度なり
- `宮の御方にも同じう鬨の声をぞ合はせたる
- `先陣が
- `橋を引いたるぞ過ちすな
- `と響みけれども後陣はこれを聞きつけず
- `我先にと進むほどに先陣二百余騎押し落されて水に溺れて失せにけり
- `さるほどに橋の両方の詰にうつ立て矢合せす
- `宮の御方より大矢俊長五智院但馬渡辺省授続源太が射ける矢ぞ楯も堪らず鎧もかけず通りける
- `源三位入道頼政は長絹の鎧直垂に品皮威の鎧なり
- `今日を最後とや思はれけんわざと甲をば着給はず
- `嫡子伊豆守仲綱は赤地の錦の直垂に黒糸威の鎧なり
- `弓を強う引かんが為にこれも甲をば着ざりけり
- `ここに五智院但馬大長刀の鞘を外いてただ一人橋の上にぞ進んだる
- `平家の方にはこれを見て
- `ただ射取れや射取れ
- `差し詰め引き詰め散々に射けれども但馬少しも騒がず上がる矢をば突い潜り下がる矢をば躍り越え向かつて来るをば長刀にて斬つて落す
- `敵も御方も見物す
- `それよりしてこそ矢切の但馬とは云はれけれ
- `また堂衆の中に筒井の浄妙明秀は褐の直垂に黒革威の鎧着て五枚甲の緒を締め黒漆の太刀を帯き二十四差いたる黒幌の矢負ひ塗籠籐の弓に好む白柄の大長刀取り副へてこれもただ一人橋の上にぞ進んだる
- `大音声を揚げて
- `遠からん者は音にも聞け
- `近からん者は目にも見給へ
- `三井寺には隠れなし堂衆の中に筒井浄妙明秀とて一人当千の兵ぞや
- `我と思はん人々は寄り合へや見参せん
- `とて二十四差いたる矢を差し詰め引つ詰め散々に射る
- `矢庭に敵十二人射殺し十一人に手負ほせたれば箙に一つぞ残つたる
- `その後弓をばからと投げ捨てて箙も解いて捨ててけり
- `頬貫脱いで跣になり橋の行桁をさらさらと走りける
- `人は恐れて渡らねども浄妙房が心地には一条二条の大路とこそ振舞ひたれ
- `長刀にて向かふ敵五人薙ぎ伏せ六人に当たる敵に逢うて長刀中より打ち折つて捨ててけり
- `その後太刀を抜いて戦ふに敵は大勢なり蜘蛛手角縄十文字蜻蜒返り水車八方透かさず斬つたりけり
- `向かふ敵を八人斬り伏せ九人に当たる敵が甲の鉢にあまり強う打ち当てて目貫の本より丁と折れくつと抜けて川へざぶとぞ入りにける
- `頼むところは腰刀死なんとのみぞ狂ひける
- `ここに乗円房阿闍梨慶秀が召し使ひける一来法師といふ大力の剛の者浄妙房が後ろに続いて戦ひけるが行桁は狭し傍通るべきやうはなし
- `浄妙房が甲の手先に手を置いて
- `悪しう候ふ浄妙房
- `とて肩をつんと躍り越えてぞ戦ひける
- `一来法師討死してけり
- `浄妙房は這ふ這ふ帰つて平等院の門の前なる芝の上に物具脱ぎ捨て矢目を数へたれば六十三裏掻く矢五所
- `されども大事の手ならねば所々に灸治し頭からげ浄衣着弓切り折り杖につき平足駄履き阿弥陀仏申して奈良の方へぞ罷りける
- `その後は浄妙房が渡つたるを手本として三井寺の大衆三位入道の一類渡辺党我先にと走り続き走り続き橋の行桁をこそ渡りけれ
- `或いは分取して帰る者もあり或いは痛手負うて腹掻き切り川へ飛び入る者もあり
- `橋の上の戦ひ火出づるほどにぞ見えたりける
- `平家の方の侍大将上総守忠清大将軍の御前に参り
- `あれ御覧候へ
- `橋の上の戦手痛う候ふ
- `今は川を渡すべきにて候ふが折節五月雨の比水増さつて候ふ
- `渡さば人馬多く滅ひ候ひなん
- `淀一口へや向かふべき
- `また河内路へは廻るべき
- `いかがせん
- `と申しければ下野国の住人足利又太郎忠綱進み出でて申しけるは
- `淀一口河内路へは天竺震旦の武士を召して向けられ候はんずるか
- `それも我等こそ承つて向かひ候はんずれ
- `目に懸けたる敵を討たずして宮を南都へ入れ参らせなば吉野十津川の勢共馳せ集まつていよいよ御大事でこそ候はんずらめ
- `武蔵と上野の境に利根川と申す大河候ふが秩父足利仲違うて常は合戦を仕り候ひしに大手は長井の渡搦手は故我杉の渡より寄せ候ひしにここに上野国の住人新田入道足利に語らはれて故我杉の渡より寄せんとて設けたる舟共を秩父が方より皆割られて申しけるは
- `只今此処を渡さずば長き弓箭の疵なるべし
- `水に溺れて死なば死ね
- `いざ渡さう
- `とて馬筏を作つて渡せばこそ渡しけめ
- `坂東武者の習ひ敵を目に懸け川を隔てたる軍に淵瀬嫌ふやうやある
- `この川の深さ早さ利根川に幾ほどの劣り勝りはよもあらじ
- `続けや殿原
- `とて真先にこそうち入れたれ
- `続く人々大胡大室深須山上那波太郎佐貫広綱四郎大夫小野寺前司太郎辺屋子四郎郎等には桐生六郎宇夫方次郎田中宗太を始めとして三百余騎ぞ続きける
- `足利大音声を揚げて
- `弱き馬をば下手に立てよ
- `強き馬をば上手にてなせ
- `馬の脚の及ばうほどは手綱をくれて歩ませよ
- `弾まば掻い操つて泳がせよ
- `下がらう者をば弓の弭に取り付かせよ
- `手に手を取り組み肩を並べて渡すべし
- `馬の頭沈まば引き上げよ
- `いたう引いて引き被くな
- `鞍壺によく乗り定めて鐙を強う踏め
- `水しとまば三頭の上に乗りかかれ
- `馬には弱う水には強う当たるべし
- `河中にて弓引くな
- `敵射るとも相引きすな
- `常に錣を傾けよ
- `いたう傾けて天辺射さすな
- `かねに渡いて押し落さるな
- `水に撓うて渡せや渡せ
- `と掟てて三百余騎一騎も流さず向かひの岸へさつとぞ打ち上げたる