一二六三宮御最期
原文
- `足利はその日の装束には朽葉の綾の直垂に赤威の鎧着て高角打つたる甲の緒を締め金作の太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ重籐の弓持つて連銭葦毛なる馬に柏木に木菟打つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗りたりける
- `鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて
- `昔朝敵将門を滅ぼして勧賞蒙つて名を後代に揚げたりし俵藤太秀郷に十代の後胤下野国の住人足利太郎俊綱が子又太郎忠綱生年十七歳に罷ん成る
- `かかる無官無位なる者の宮に向かひ参らせて弓を引き矢を放つ事は天の恐れ少なからず候へども但し弓も矢も冥加のほども平家の御上にこそ留まり候はめ
- `三位入道殿の御方に我と思はん人々は寄り合へや見参せん
- `とて平等院の門の内へ攻め入り攻め入り戦ひけり
- `大将軍左兵衛督知盛これを見給ひて
- `渡せや渡せ
- `と下知し給へば二万八千余騎皆うち入れて渡す
- `さばかり早き宇治川も馬や人に塞かれて水は上にぞ湛へたる
- `雑人原は馬の下手に取り付き取り付き渡るほどに膝より上を濡さぬ者も多かりけり
- `自づから外るる水には何も堪らず流れたり
- `ここに伊賀伊勢両国の官兵等馬筏押し破られて六百余騎こそ流れたれ
- `萌黄緋威赤威色々の鎧の浮きぬ沈みぬ揺られけるは神南備山の紅葉葉の峰の嵐に誘はれて龍田川の秋の暮れ井堰にかかりて流れも敢へぬに異ならず
- `その中に緋威の鎧着たる武者三人網代に流れ懸つて浮きぬ沈みぬ揺られけるを伊豆守見給ひて
- `かうぞ詠じ給ひける
- `伊勢武者はみなひをどしの鎧きて宇治のあじろにかかりぬるかな
- `黒田後平四郎日野十郎乙部弥七とて皆伊勢国の住人なり
- `中にも日野十郎は古兵にてありければ弓の弭を岩の間に捩ぢ立てて掻き上がり二人の者共をも引き上げて助けけるとぞ聞えし
- `大勢皆渡つて平等院の門の内へ攻め入り攻め入り戦ひけり
- `この紛れに宮をば南都へ先立たせ参らせ三位入道の一類渡辺党三井寺の大衆残り留まつて防ぎ矢射けり
- `源三位入道は七十に余つて軍して弓手の膝口を射させ痛手なれば心静かに自害せんとて平等院の門の内へ引き退いて敵襲ひかかれば次男源大夫判官兼綱紺地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て白葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗り給ひたりけるが父を延ばさんが為に返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ
- `上総太郎判官が射ける矢に源大夫判官内甲を射させて怯む処に上総守が童次郎丸といふ大力の剛の者萌黄匂の鎧着三枚甲の緒を締め打物の鞘を外いて源大夫判官に押し並べて引つ組んでどうと落つ
- `源大夫判官は大力にておはしければ次郎丸を取つて押さへて首を馘き立ち上らんとする処に平家の兵共十四五騎落ち重なつてつひに兼綱を討ちてけり
- `伊豆守仲綱も散々に戦ひ痛手数多負うて平等院の釣殿にて自害してけり
- `その首をば下河辺藤三郎清親取つて大床の下へぞ投げ入れたる
- `六条蔵人仲家その子蔵人太郎仲光も散々に戦ひ分捕り数多してつひに討死してけり
- `この仲家と申すは故帯刀先生義方が嫡子なり
- `然るを父討たれて後孤子にてありしを三位入道養子にして不便にし給ひしかば日比の契約を違へず一所にて死にけるこそ無慙なれ
- `三位入道渡辺長七唱を召して
- `我が首打て
- `と宣へば主の生け首打たんずる事の悲しさに
- `仕らうとも存じ候はず
- `御自害候はばその後こそ給はり候はめ
- `と申しければ
- `げにも
- `とや思はれけん西に向かひ手を合はせ高声に十念を唱へ給ひて最後の詞ぞ哀れなる
- `埋木の花さく事もなかりしにみのなるはてぞかなしかりける
- `これを最後の詞にて太刀の先を腹に突き立て俯し様に貫かつてぞ失せられける
- `その時に歌詠むべうはなかりしかども若うより強ちに好いたる道なれば最後の時も忘れ給はず
- `その首をば長七唱が取つて大勢の中を紛れ出でて石に括り合はせ宇治川の底の深き所に沈めけり
- `平家の侍共いかにもして競滝口をば生捕にせばやと窺ひけれども競も先に心得て散々に戦ひ痛手数多負ひ腹掻き切つて死にける
- `円満院大輔源覚は
- `今は宮も遥かに延ばさせ給ひぬらん
- `とや思ひけん大太刀大長刀左右に持つて敵の中を割つて出で宇治川へ飛んで入り物の具一つも捨てず水の底を潜つて向かひの岸にぞ突着きにける
- `高き所に走り上がり大音声を揚げて
- `いかに平家の君達これまでは御大事かよう
- `と云ひ捨てて三井寺へこそ帰りけれ
- `飛騨守景家は古兵にてありければ
- `この紛れに宮は定めて南都へや落ちさせ給ふらん
- `とて直甲四五百余騎鞭鐙を合はせて追つ懸け奉る
- `案の如く宮は三十騎ばかりで落ちさせ給ふ処を光明山の鳥居の前にて追つ付き奉り雨の降るやうに射参らせければいづれが矢とは知らねども矢一つ来たつて宮の左の御側腹に立ちければ御馬より落ちさせ給ひて御首取られさせ給ひけり
- `御供申したる鬼佐渡荒土佐荒大夫俊秀も
- `命をばいつの為にか惜しむべき
- `とて散々に戦ひ一所で討死してけり
- `その中に宮の御乳母子の六条亮大夫宗信は馬は弱る敵は続く遁れるべきやうなかりしかば新野池へ飛んで入り浮草顔に取り覆ひ震ひ居たれば敵は前をぞうち通りぬ
- `ややあつて敵四五百騎さざめいてうち帰りける中に浄衣着たる死人の首もなきを蔀の下に舁いて出で来たるを見れば宮にてぞましましける
- `我死なば御棺に入れよ
- `と仰せられし小枝と聞えし御笛をも未だ御腰にぞ差させましましける
- `走り出でて取り付き奉らばやとは思へども恐ろしければそれも叶はず
- `敵皆通つて後池より上がり濡れたる物共絞り着て泣く泣く京へ上つたれば憎まぬ者こそなかりけれ
- `さるほどに南都の大衆七千余人甲の緒を締め宮の御迎に参りけるが先陣は木津に進み後陣は未だ興福寺の南大門にぞ揺らへたる
- `宮ははや光明山の鳥居の前にて討たれさせ給ひぬと聞えしかば大衆力及ばず涙を押さへて留まりぬ
- `いま五十町ばかり待ちつけさせ給はで討たれさせ給ひける宮の御運のほどこそうたてけれ