一三六四若宮御出家
原文
- `平家の人々宮並びに三位入道の一類渡辺党三井寺の大衆都合五百余人が首斬つて太刀長刀の先に貫き高く差し上げ夕べに及んで六波羅へ帰り入らる
- `兵共勇み罵る事夥し
- `中にも三位入道の首をば長七唱が宇治川の深き所に沈めてければ見ざりけり
- `子共の首をば彼処此処より皆尋ね出だされたり
- `中にも宮の御首をば年比参り通ふ人もなかしりかば誰見知り参らせたる人もなし
- `典薬頭定成こそ先年御療治の為に召されしかばそれぞ見知り参らせたるにこそとて召されけれども現所労とて参らず
- `また六波羅より常は宮の召され参らせける女房とて尋ね出だされたり
- `御子数多産み参らせなどしてさしも御契り浅からざりしかばなじかは見損じ奉るべき
- `ただ一目見参らせて袖を顔に押し当てて涙を流しけるにぞ宮の御首とは知りてけれ
- `この宮は腹々の御子の宮達数多渡らせおはしましけり
- `八条女院に候はれける伊予守盛教が娘三位局とて申しける女房の腹に七歳の若宮五歳の姫宮ましましけり
- `入道相国の弟池中納言頼盛卿を以て八条女院へ申されけるは
- `姫宮の御事は申すに及ばず若宮をば疾う出だし参らさせ給へ
- `と申されたりければ女院の御返事に
- `かくと聞えし暁方御乳の人などが心幼う具し奉つて失せけるにや全くこの御所に渡らせ給はず
- `とぞ仰せければ頼盛卿帰り参つてこの由かくと申されければ
- `何条その御所ならでは何処へか渡らせ給ふべかんなるぞ
- `その儀ならば武士共参つて探し奉れ
- `とぞ宣ひける
- `この中納言は女院の御乳母宰相殿と申す女房に相具して常は参り通はれければ日比は懐しうこそ思し召しつるにこの宮の御事申しに参られたればいつしか疎ましうぞ思し召されける
- `若宮女院に申させ給ひけるは
- `これほどの御大事に及び候ふ上つひには遁れ候ふまじ
- `早々出ださせおはしませ
- `と申させ給ひければ女院御涙を流させ給ひて
- `人の七つ八つは未だ何事をも聞き分かぬほどぞかし
- `それに御身故かかる大事の出で来たるを片腹痛く思してかやうに仰せらるる事よ
- `由なかりける人をこの六七年手慣らして今日はかかる憂き目を見るよ
- `とて御涙塞き敢へさせ給はず
- `頼盛卿若宮の御事重ねて申しに参られたれば女院力及ばせ給はずつひに出だし参らせ給ひけり
- `御母三位局今を限りの御別れなればさこそは御名残惜しうも思し召されけめ
- `さてしもあるべき事ならねば泣く泣く御衣着せ参らせ御髪掻き撫でて出だし参らさせ給ふもただ夢とのみぞ思はれける
- `女院を始め参らせて局の女房女童に至るまで涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり
- `頼盛卿宮受け取り参らせ御車に乗せ奉りて六波羅へ渡し奉る
- `前右大将宗盛卿この宮を見参らせて父の禅門の御前におはして
- `前世の事に候ふやらん若宮をただ一目見参らせて候へばあまりに御労しう思ひ参らせて候ふ
- `何か苦しう候ふべき
- `この宮の御命をば枉げて宗盛に賜び候へかし
- `と申されければ入道いかが思はれけん
- `さらば疾う御出家をせさせ奉れ
- `とぞ宣ひける
- `宗盛卿八条女院にこの由申されたりければ女院
- `何のやうもあるべからず
- `ただ疾う疾う
- `とて御出家せさせ奉らる
- `釈氏に定まらせ給ひしかば法師に成し参らせて仁和寺の御室の御弟子に成し参らさせ給ひけり
- `後には東寺の一の長者安井宮僧正道尊と申ししはこの宮の御事なり
- `奈良にも一所ましましけり
- `御傅讃岐守重秀が御出家せさせ奉り具し奉りて北国へ落ち下りたりしを木曾義仲上洛の時主にし参らせんとて還俗せさせ奉り具足し奉つて都へ上つたりければ
- `木曾宮
- `とも申しまた
- `還俗宮
- `とも申す
- `後には嵯峨の辺野依にましましければ
- `野依宮
- `とも申しき
- `昔通乗といつし相人あり
- `宇治殿二条殿をば
- `君三代の関白共に御年八十
- `と申したりしも違はず帥内大臣を
- `流罪の相まします
- `と申したりしも違はず
- `また聖徳太子の崇峻天皇を
- `横死の相まします
- `と申させ給ひたりしが馬子大臣に殺されさせ給ひぬ
- `必ず相人としもあらねども上古にはかうこそめでたかりしか
- `これは相少納言が僻事にはあらずや
- `中比兼明親王具平親王と申ししは
- `前中書王
- `後中書王
- `とて共に賢王聖主の皇子にて渡らせ給ひしかどもつひには位にも即かせ給はず
- `されどもいづれかは御謀反を起させ給ひたりけん
- `また後三条院第三の皇子資仁親王と申ししは御才学勝れてましましければ白河院未だ春宮の御時
- `御位の後はこの宮を位には即け参らさせ給へ
- `と後三条院御遺詔ありしかども白河院いか思し召されけんつひに位には即け参らさせ給はず
- `せめての御事にや資仁親王の御子に源氏の姓を授け参らさせ給ひて無位より一度に三位に叙してやがて中将に成し参らさせ給ふ
- `一世の源氏無位より三位する事は嵯峨皇帝の御子陽院大納言定卿の外はこれ始めとぞ承る
- `花園左大臣有仁公の御事なり
- `されば今度の高倉宮の御謀反によつて調伏の法承つて行はれける高僧達に勧賞共行はる
- `前右大将宗盛卿の子息侍従清宗十二の歳三位して
- `三位侍従
- `とぞ申しける
- `父の卿はこの齢では僅か兵衛佐までこそ至られしか
- `忽ちに上達部に上がり給ふ事一の人の君達の外はこれ始めとぞ承る
- `さるほどに
- `源以光並びに三位入道頼政父子追討の賞
- `とぞ除書にはありける
- `源以光とは高倉宮を申しけり
- `正しい太上法皇の皇子を射奉るだにあるに剰へ凡人に成し奉るぞあさましき