一六七都遷
原文
- `治承四年六月三日福原へ行幸成るべしと聞ゆ
- `この日比都遷あるべしと聞えしかども忽ちに今明のほどとは思はざりしものを
- `とて京中の上下騒ぎ合へり
- `三日と定められたりしが今一日引き上げて二日になりぬ
- `二日の卯の刻に既に行幸の御輿を寄せたりければ主上は今年三歳未だ稚うましければ何心も無うぞ召されける
- `主上幼う渡らせ給ふ時の御同輿には母后こそ参らせ給ふにこれはその儀なし
- `御乳母帥典侍殿ぞ一つ御輿には参られけり
- `中宮一院上皇も御幸成る
- `摂政殿を始め奉りて太政大臣以下の卿相雲客我も我もと供奉せらる
- `平家には太政入道を始め参らせて一門の人々皆参られけり
- `三日福原へ入らせおはします
- `入道相国の弟池中納言頼盛卿の山庄皇居に成る
- `四日頼盛家の賞とて正二位し給ふ
- `九条殿の御子右大将良通卿加階越えられさせ給ひけり
- `摂籙の臣の御子息凡人の次男に加階越えられさせ給ふ事これ初めとぞ承る
- `入道相国やうやう思ひ直つて法皇をば鳥羽殿の北殿を出だし参らせて都へ還御成し奉られたりしが高倉宮の御謀反によつて大きに憤りまた福原へ御幸成し奉り四面に端板して口一つ開きたる内に三間の板屋を造つて押し籠め奉る
- `守護の武士には原田大夫種直ばかりぞ候ひける
- `容易う人の参り通ふべきやうもなければ童部などは
- `牢の御所
- `とぞ申しける
- `聞くも忌々しうあさましかりし事共なり
- `法皇
- `今は世の政知ろし召さばやとは露も思し召し寄らず
- `ただ山々寺々修行して御心のままに慰まばや
- `とぞ仰せける
- `平家の悪行に於いては悉く極りぬ
- `去んぬる安元より以来多くの大臣公卿或いは流し或いは失ひ関白流し奉つて我が聟を関白に成し法皇を城南の離宮に押し籠め奉り剰へ第二皇子高倉宮討ち奉つて今残る所の都遷なればかやうにし給ふにや
- `とぞ人申しける
- `都遷はこれ先蹤なきにあらず
- `神武天皇と申すは地神五代の帝彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四の皇子御母は玉依姫海神の娘なり
- `神の代十二代の跡を受け人代百王の帝祖なり
- `辛酉の年日向国宮崎郡にして皇王の宝祚を継ぎ五十九年といつし己未年十月に東征して豊葦原中津国に留まりこの比
- `大和国
- `と名付けたる畝傍山を点じて帝都を建て橿原の地を切り払つて宮室を造り給へり
- `これを
- `橿原宮
- `と名付けたり
- `それより以来代々の帝王都を他国他所へ遷さるる事三十度に余り四十度に及べり
- `神武天皇より景行天皇まで十二代は大和国郡々に都を建て他国へはつひに遷されず
- `然るを成務天皇元年に近江国に遷つて志賀郡に都を建つ
- `仲哀天皇二年に長門国に遷つて豊浦郡に都を建つ
- `その国のかの都にして帝隠れさせ給ひしかば后神功皇后御世を受け取らせ給ひ女帝として鬼界高麗契丹まで攻め従へさせ給ひけり
- `異国の軍を鎮めさせ給ひて帰朝の後筑前国三笠郡にして皇子御誕生やがてその所をば
- `産宮
- `とぞ申しける
- `かけまくも忝なく八幡の御事これなり
- `位に即かせ給ひては応神天皇とぞ申しける
- `その後神功皇后は大和国に遷つて磐余稚桜宮におはします
- `応神天皇は同じき国軽島明宮に栖ませ給ふ
- `仁徳天皇元年に津国難波に遷つて高津宮におはします
- `履仲天皇二年にまた大和国に遷つて十市郡に都を建つ
- `反正天皇元年に河内国に遷つて柴垣宮に栖ませ給ふ
- `允恭天皇四十二年にまた大和国に遷つて飛鳥の飛鳥宮におはします
- `雄略天皇二十一年に同じき国泊瀬朝倉に宮居し給ふ
- `継体天皇五年に山城国綴喜に遷つて十二年その後乙訓に宮居し給ふ
- `宣化天皇元年にまた大和国に遷つて檜隈入野宮に栖ませ給ふ
- `孝徳天皇大化元年に摂津国長柄に遷つて豊崎宮におはします
- `齊明天皇二年にまた大和国に遷つて岡本宮に栖ませ給ふ
- `天智天皇六年に近江国に遷つて大津宮におはします
- `天武天皇元年になほ大和国に帰つて岡本の南宮に栖ませ給ふ
- `これを清見原の帝と申しき
- `持統文武二代の聖朝は藤原宮におはします
- `元明天皇より光仁天皇まで七代は奈良の都に栖ませ給ふ