四七〇物怪
原文
- `都を福原へ遷されて後平家の人々夢見も悪しう常は心騒ぎのみして変化の者共多かりけり
- `ある夜入道の臥せ給ひたりける所に一間憚るほどの物の面出で来て覗き奉る
- `入道相国ちつとも騒がずはつたと睨まへておはしければただ消えに消え失せぬ
- `岡の御所と申すは新しう造られたりければ然るべき大木なんども無かりけるにある夜大木の倒るる音して人ならば二三千人が声して虚空にどつと笑ふ音しけり
- `いかさまにも天狗の所為といふ沙汰にて昼五十人夜百人の番衆を揃へ
- `蟇目の番
- `と名付けて蟇目を射させられけるに天狗のある方へ向いて射たると思しき時は音もせずまた無い方へ向いて射たる時はどつと笑ひなんどしけり
- `またある朝入道相国帳台より出で妻戸を押し開き坪の内を見給へば死人の枯髑髏共が幾らといふ数も知らず庭に満ち満ちて中なるは端へ転び出で端なるは中へ転び入り転び合ひ転び退き寄り合ひ寄り退き夥しう絡めき合へりければ入道相国
- `人やある人やある
- `と召されけれども折節人も参らず
- `かくして多くの髑髏共一つに固まり合ひ坪の内に憚るほどになりて高さ十四五丈もあらんと覚ゆる山の如くになりにけり
- `かの一つの大頭に生きたる人の眼のやうに大の眼が千万出で来て入道相国をはたと睨まへ暫しは瞬きもせず
- `入道ちつとも騒がず丁と睨舞へて立たれたりければかの大頭あまりに強う睨まれて霜露などの日に当たつて消ゆるやうに跡形もなくなりにけり
- `また入道相国の一の御厩に立つて朝夕隙なく撫で飼はれける馬の尾に鼠一夜の内に巣くひ子をぞ産んだりける
- `これ只事にあらず御占あるべし
- `とて神祇官して七人の陰陽師を召して占はせらるるに
- `重き御慎み
- `と占ひ申す
- `この馬は相摸国の住人大庭三郎景親が東八箇国一の馬とて入道相国へ参らせたりけるとかや
- `黒き馬の額白かりければ名をば
- `望月
- `とぞ云はれける
- `陰陽頭安倍泰親賜はつてけり
- `昔も
- `天智天皇の御時寮の御馬の尾に一夜の内に鼠巣をくひ子を産んだりけるには異国の凶賊蜂起したり
- `とぞ日本紀には見えたりける
- `また雅頼卿の許に召し使はれける青侍が見たりける夢も恐ろしかりけり
- `たとへば大内の神祇官と思しき所に束帯正しき上臈の数多ましまして議定の様なる事のありしに末座なる上臈の平家の方人し給ふと思しきをその中より追ひ立てらる
- `かの青侍夢の中にあればある老翁に
- `いかなる上臈にてましまし候ふやらん
- `と問ひ奉れば
- `厳島大明神
- `と答へ給ふ
- `その後座上に気高げなる御宿老のましましけるが
- `この日比平家の預り奉りたる節刀をば召し返して伊豆国の流人前兵衛佐頼朝に賜ばうずるなり
- `とぞ仰せける
- `その御側になほ御宿老のましましけるが
- `その後は我が孫にも賜べかし
- `とぞ仰せける
- `青侍夢の内にこれを次第に問ひ奉る
- `節刀を頼朝に賜ばう
- `と仰せらるるは八幡大菩薩その後
- `我が孫にも賜べかし
- `と仰せられたのは春日大明神かう申す老翁は武内大明神
- `と答へ給ふと思しくて夢覚めぬ
- `これを人に語るほどに入道相国洩れ聞き給ひて源大夫判官季貞を以て雅頼卿の許へ
- `それに夢見の青侍の候ふなる給はつて委しう尋ね候はばや
- `と宣ひ遣はされたりければかの夢見たりける青侍やがて逐電してけり
- `その後雅頼卿入道相国の亭へおはして
- `全くさる事候はず
- `と陳じ申されければその後は沙汰もなかりけり
- `何よりもまた不思議なりし事には清盛公未だ安芸守たりし時神拝の序でに霊夢を蒙つて厳島大明神より現に賜はられたりける銀の蛭巻したる小長刀常の枕を放たず立てられたりしがある夜俄に失せにけるこそ不思議なれ
- `平家日比は朝家の御固めにて天下を守護せしかども今は勅命に背きぬれば節刀をも召し返さるるにや心細う聞えし
- `中にも高野におはしける宰相入道成頼この事共を伝へ聞きて
- `あははや平家の世は漸う末になりぬるは
- `厳島大明神の平家の方人し給ふといふもその謂れあり
- `但しこの厳島大明神は沙羯羅龍王の第三の姫宮なれば女神とこそ承れ
- `八幡大菩薩の節刀を頼朝に賜ばうと仰せられつるも理なり
- `春日大明神の
- `その後は我が孫にも賜び候へ
- `と仰せられけるこそ心得ね
- `それも平家滅び源氏の世尽きなん後大織冠の御末執柄家の君達達の天下の将軍に成り給ふべきか
- `など宣ひける
- `折節ある僧の来たりけるが申しけるは
- `それ神明は和光垂迹の方便区々にましませばある時は女神とも成りまたある時は俗体とも現じ給へり
- `まことにこの厳島大明神は三明六通の霊神にてましませば俗体と現じ給はん事も難かるべきにあらず
- `とぞ申しける
- `憂き世を厭ひまことの道に入り給へば偏に後世菩提の外はまた他事あるまじき事なれども善政を聞きては感じ愁ひを聞きては嘆くこれ皆人間の習ひなり