六七二朝敵揃
原文
- `平家の人々都遷もはや興醒めぬ
- `若き公卿殿上人は
- `さらば疾くして事の出で来よかし
- `我討手に向かはう
- `など云ふぞはかなき
- `畠山庄司重能小山田別当有重宇都宮左衛門朝綱これらは大番役にて折節在京したりけるが畠山申しけるは
- `親しうなつて候ふなれば北条は知り候はず
- `自余の輩はよも朝敵の方人は仕り候はじ
- `只今聞し召し直さんずるものを
- `と申しければ
- `げにも
- `と申す人もあり
- `いやいや只今御大事に及び候ひなんず
- `と囁く人々もありけるとかや
- `入道相国の怒られける様斜めならず
- `抑もかの頼朝は去んぬる平治元年十二月父義朝が謀反によつて既に死罪に誅せらるべかりしを禅尼の強ちに嘆き宣ふ間流罪には宥められたんなり
- `然るにその恩を忘れて当家に向かつて弓を引き矢を放つにこそあんなれ
- `その儀ならば神明も三宝もいかでか許し給ふべき
- `只今天の責め蒙らんずる頼朝かな
- `とぞ宣ひける
- `抑も我が朝に朝敵の始まりける事は神武帝の御宇四年紀州名草郡高雄村に一つの蜘蛛あり
- `身短く足長くして力人に勝れたり
- `人民多く損害せしかば官軍発向して宣旨を読みかけ網を結んでつひにこれを覆ひ殺す
- `それより以来野心を差し挟んで朝威を滅ぼさんとする輩大石山丸大山王子山田石河守屋大臣蘇我入鹿大友真取文屋宮田橘逸勢氷上河次伊予親王太宰少弐藤原広嗣恵美押勝早良太子井上皇后藤原仲成平将門藤原純友安倍貞任宗任前対馬守源義親悪左府悪衛門督に至るまでその例既に二十余人
- `されども一人として素懐を遂ぐる者なし
- `皆骸を山野に曝し首を獄門に懸けらる
- `この世こそ王位も無下に軽けれ
- `昔は宣旨を向かつて読みければ枯れたる草木も忽ちに花咲き実生り飛ぶ鳥も従ひき
- `近比の事ぞかし延喜御門神泉苑へ行幸成つて池の汀に鷺の居たりけるを六位を召して
- `あの鷺取りて参れ
- `と仰せければ
- `いかが取らん
- `とは思ひけれども綸言なれば歩み向かふ
- `鷺も羽繕ひして立たんとす
- `宣旨ぞ
- `と仰すれば平んで飛び去らず
- `即ちこれを取つて参らせたりければ
- `汝が宣旨に従ひて参りたるこそ神妙なれ
- `やがて五位に成せ
- `とて鷺を五位にぞ成されける
- `今日より後鷺の中の王たるべし
- `といふ御札を遊ばいて首に付けて放たせ給ふ
- `全くこれは鷺の御料にはあらずただ王威のほどを知ろし召さんが為なり