八七四文覚荒行
原文
- `然るにかの頼朝は去んぬる平治元年十二月父左馬頭義朝が謀反によつて既に誅せらるべかりしを生年十四歳と申しし永暦元年三月二十日北条蛭小島へ流されて二十余年の春秋を送り迎ふ
- `年来もあればこそありけめ今年いかなる心にて謀反をば起されけるぞと云ふに高雄の文覚上人の勧め申さけるによつてなり
- `抑もこの文覚と申すは渡辺遠藤左近将監茂遠が子に遠藤武者盛遠とて上西門院の衆なり
- `十九の年道心発し出家して修行に出でんとしけるが
- `修行といふはいかほどの大事やらん試いてみん
- `とて六月の日の草も揺るがず照りたるにある片山里の薮の中へ這入り裸になり仰のけ臥す
- `虻ぞ蚊ぞ蜂蟻などいふ毒虫共が身にひしと取り付いて刺し食ひなどしけれどもちとも身をも働かさず
- `七日までは起きも上がらず
- `かくて八日といふに起き上がりて
- `修行といふはこれほどの大事やらん
- `と人に問へば
- `それほどならんにはいかでか命も生くべき
- `と云ふ
- `さては安平ごさんなれ
- `とてやがて修行にこそ出にけれ
- `熊野へ参り那智籠りせんとしけるがまづ行の試みに聞ゆる滝に暫く打たれんとて滝本へこそ参りけれ
- `比は十二月十日余りの事なれば雪降り積り氷柱凍て谷の小川も音もせず峰の嵐吹き凍り滝の白糸垂氷となつて皆白妙に押し並べて四方の梢も見え分かず
- `然るに文覚滝壺に下り浸り首際浸かつて慈救呪を満てけるが二三日こそありけれ四五日にもなりしかば文覚堪へずして浮き上がりぬ
- `数千丈漲り落つる滝なればなじかは堪るべき
- `さつと押し落され刀の刃の如くにさしも厳き岩角の中を浮きぬ沈みぬ五六町こそ流れけれ
- `時に美しき童子一人来たつて文覚が手を取つて引き上げ給ふ
- `人奇特の思ひをなして火を焚き炙りなどしければ定業ならぬ命ではあり文覚ほどなく息出ぬ
- `少し人心地出で来大の眼を見怒らかし
- `我この滝に三七日打たれて慈救三洛叉を満てうと思ふ大願あるが今日は僅かに五日にこそなれ
- `未だ七日だにも過ぎざるに何者がこれまでは取つて来たれるぞ
- `と云ひければ見る人身の毛もよだつてもの云はず
- `また滝壺に帰り立ちてぞ打たれける
- `第二日と申すに八人の童子来て文覚が左右の手を取つて引上んとし給へば散々に掴み合うて上がらず
- `第三日と申すにはかなくなりぬ
- `滝壺を穢さじとや鬢結うたる天童二人滝の上より下り下らせ給ひて世に暖かに香ばしき御手を以て文覚が頂上より始めて手足の爪先掌に至るまで撫で下させ給へば文覚夢の心地して息出ぬ
- `扶け起され少し人心地ついて
- `これはさればいかなる人にてましませばかくは憐れみ給ふぞ
- `と問ひければ二童子答へて曰く
- `我はこれ大聖不動明王の御使に矜迦羅制多伽といふ二童子なり
- `文覚無上の願を発し勇猛の行を企つ
- `行きて力を合はせよ
- `と明王の勅によつて来たれるなり
- `とぞ宣ひける
- `文覚声を怒らかいて
- `さて明王は何処にましますぞ
- `兜率天に
- `と答へて雲井遥かに上がり給ふ
- `文覚
- `さては我が行をば大聖不動明王までも知ろし召されたるにこそ
- `といよいよ尊く覚えなほ滝壺に帰り立ちてぞ打たれける
- `その後はまことにめでたき瑞相共多かりければ吹き来る風も身に沁まず落ち来る水も湯の如し
- `かくて三七日の大願つひに遂げにけり
- `那智に千日籠りけり
- `大峰三度葛城二度高野粉河金峰山白山立山富士の岳伊豆箱根信濃の戸隠出羽の羽黒惣じて日本国残る所なう行ひ廻りさすがなほ故郷や恋しかりけん都へ帰り上つたりければ凡そ飛鳥も祈り落すほどの刃の験者とぞ聞えし