一一七七伊豆院宣
原文
- `その後文覚をば当国の住人近藤四郎国高に仰せて奈古屋が奥にぞ住ませける
- `さるほどに兵衛佐殿おはしける蛭小島もほど近し
- `文覚常は参り御物語共申しけるとぞ聞えし
- `ある時文覚兵衛佐殿に申しけるは
- `平家には小松大臣殿こそ果報もめでたう御謀も鋼にましまししか
- `平家の末になるやらん去年の八月薨ぜられぬ
- `今は源平の中に御辺ほど天下の将軍の相持ちたる人は無し
- `早く謀反起させ給ひて日本国従ひ給へ
- `と云ひければ兵衛佐殿
- `それ思ひも寄らず
- `我は故池禅尼に助けられ奉つたればその恩を報ぜんが為に毎日に法華経一部転読し奉るより外は他事なし
- `とぞ宣ひける
- `文覚重ねて
- `天の与ふるを取らざれば却つてその咎を受く
- `時至つて行はざれば却つてその殃を受く
- `といふ本文あり
- `かやうに申せば御辺の御心をがな引かんとて申すとや思し召され候ふらんその儀では候はず
- `まづ御辺に志の深いやうを見給へ
- `とて懐より白布に包んだる髑髏を一つ取り出だす
- `兵衛佐殿
- `あれはいかに
- `と宣へば
- `これこそ御辺の父故左馬頭殿の頭よ
- `平治の後獄舎の前なる苔の下に埋もれて後世弔ふ人もなかりしを文覚存ずる旨あつて獄守に乞ひ首に懸け山々寺々修行してこの二十四年が間弔ひ奉つたれば今は定めて一劫も浮かび給はんずらん
- `されば故頭殿の御為にはさしも奉公の者にてこそ候ふぞかし
- `と申されければ兵衛佐殿一定とは覚えねども父の頭と聞く懐しさにまづ涙をぞ流されける
- `ややあつて兵衛佐殿涙を押さへて宣ひけるは
- `抑も頼朝勅勘を許りずしてはいかでか謀反をば起すべき
- `と宣へば
- `それ易いほどの事なり
- `やがて上りて申し許し奉らん
- `兵衛佐殿嘲笑つて
- `我が身も勅勘の身でありながら人の事申さうと宣ふ聖の御房の宛がひやうこそ大きにまことしからね
- `と宣へば文覚大きに怒つて
- `我が身の勅勘を許りうと申さばこそ僻事ならめ
- `和殿の事申さうになじかは僻事ならん
- `これより今の都福原の新都へ上らうに三日に過ぐまじ
- `院宣伺ふに一日の逗留ぞあらんずらん
- `都合七日八日に過ぐまじ
- `とてつき出ぬ
- `聖奈古屋に帰つて弟子共には人に忍うで伊豆の御山に七日参籠の志ありとて出でにけり
- `げにも三日といふには福原の新都へ上り着いて前右兵衛督光能卿の許に聊か縁ありければそれに尋ね行きて
- `伊豆国の流人前右兵衛佐頼朝
- `勅勘を許されて院宣をだに蒙り候はば八箇国の家人共を催し集めて平家を滅ぼし天下を鎮めん
- `とこそ申し候へ
- `光能卿
- `いさとよ我が身も当時は三官共に停められて心苦しき折節なり
- `法皇も押し籠められて渡らせ給へばいかがあらんずらん
- `さりながら伺ふてこそ見め
- `とてこの由密かに奏せられければ法皇やがて院宣をこそ下されけれ
- `聖これを首に懸けまた三日と云ふに伊豆国へ下り着く
- `兵衛佐殿
- `聖の御房の憖じひなる事申し出でて頼朝またいかなる憂き目に逢はんずらん
- `と思はじ事なう案じ続けておはしける
- `八日といふ午の刻に下り着いて
- `くは院宣よ
- `とて奉る
- `兵衛佐殿院宣と聞く忝さに新しき烏帽子浄衣を着手水嗽して院宣を三度拝して開かれけり
- ``頃年以降平氏蔑如㆓王化㆒無㆑憚㆓政道㆒
- ``欲㆘破㆓滅仏法㆒乱㆗朝威㆖
- ``夫我朝神国也
- ``宗廟相並神徳惟新
- ``故朝廷開基後数千余歳間欲㆘傾㆓帝猷㆒危㆗国家㆖者皆無㆑不㆓以敗北㆒
- ``然則且任㆓神道之冥助㆒且守㆓勅宣之旨趣㆒早誅㆓平氏一類㆒退朝家怨敵㆒
- ``継㆓譜代相伝兵略㆒抽㆓累祖奉公忠勤㆒可㆓立㆑身興㆒㆑家
- ``者院宣如㆑此
- ``仍執達如㆑件
- ``治承四年七月十四日
- ``前右兵衛督光能奉
- `謹上前右兵衛佐殿へ
- `とぞ書かれたる
- `この院宣をば錦の袋に入れて石橋山の合戦の時も兵衛佐殿首に懸けられけるとぞ聞えし
書下し文
一
- ``頃りの年より以降平氏王化を蔑如して政道に憚る事無し
- ``仏法を破滅し朝威を乱らんとす
- ``それ我が朝は神国なり
- ``宗廟相並んで神徳これ新たなり
- ``かるが故に朝廷開基の後数千余歳の間帝猷を傾け国家を危ぶめんとする者皆以て敗北せずといふ事無し
- ``然れば則ち且つは神道の冥助に任せ且つは勅宣の旨趣を守つて早く平氏の一類を誅して朝家の怨敵を退けよ
- ``譜代相伝の兵略を継ぎ累祖奉公の忠勤を抽んでて身を立て家を興すべし
- ``てへれば院宣かくの如し
- ``よつて執達件の如し
- ``治承四年七月十四日
- ``前右兵衛督光能が奉る