一二七八富士川

原文

  1. `さるほどに福原には公卿僉議ありていま一日も勢の付かぬ先に急ぎ討手を下さるべしとて大将軍には小松権亮少将維盛副将軍には薩摩守忠度侍大将には上総守忠清を先として都合その勢三万余騎九月十八日に辰の一点に都を立ちて明くる十九日には旧都に着きやがて同じき二十日東国へこそ赴かれけれ
  2. `大将軍権亮少将維盛は生年二十三容儀帯佩絵に画くとも筆も及び難し
  3. `重代の着背長唐皮といふ鎧をば唐櫃に入れて舁かせらる
  4. `路中は赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧着て連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗り給へり
  5. `副将軍薩摩守忠度は紺地錦の直垂に黒糸威の鎧着て黒き馬の太う逞しきに沃懸地の鞍を置いて乗り給へり
  6. `馬鞍鎧甲弓矢太刀刀に至るまで光輝くほどに出で立たれたればめでたかりし見物なり
  7. `中にも副将軍薩摩守忠度は年比或る宮腹の女房の許へ通はれけるがある時おはしたりけるにこの女房の局に止事なき女房客人に来たつて小夜も漸う更けゆくまで帰り給はず
  1. `忠度軒端に休らひ扇を荒く使はれければかの女房の声と思しくて
  2. `野もせにすだく虫の音よ
  3. `と優に口遊み給へば扇を使ひ止みてぞ帰られける
  1. `その後またおはしたりける夜
  2. `いつぞや何とて扇をば使ひ止めしぞや
  3. `と問はれければ
  4. `いざ
  5. `かしがまし
  6. `など聞え候ひしほどにさてこそ扇をば使ひ止みて候ひしか
  7. `とぞ申されける
  1. `その後この女房薩摩守の許へ小袖を一重遣はすとて千里の名残の惜しさに一首の歌を書き添へて送られける
  2. `あづま路の草葉をわけん袖よりもたたぬたもとの露ぞこぼるる
  3. `薩摩守の返事に
  4. `わかれぢをなにかなげかんこえてゆく関もむかしのあととおもへば
  5. `関も昔の跡
  6. `と詠める事は先祖平将軍貞盛将門追討の為に吾妻へ下向したりし事を思ひ出でて詠みたりけるにやいと優しうぞ聞えし
  1. `昔は朝敵を平らげんとて外土へ向かふ将軍はまづ参内して節刀を賜はる
  2. `宸儀南殿に出御して近衛階下に陣を引き内弁外弁の公卿参列して中儀の節会を行はる
  3. `大将軍副将軍各礼儀を正しうしてこれを賜はる
  4. `承平天慶の蹤跡も年久しうなつて准らへ難しとて今度は讃岐守平正盛が前対馬守源義親追討の為に出雲国へ下向せし例とて鈴ばかり賜はつて皮袋に入れて雑色が首に懸けさせてぞ下られける
  1. `古朝敵を滅ぼさんとて都を出づる将軍は三つの存知あり
  2. `節刀を賜はる日家を忘れ出づる時妻子を忘れ戦場にして敵に戦ふ時身を忘る
  3. `されば今の平氏の大将軍維盛忠度も定めてかやうの事をば存知せられたりけんあはれなりし事共なり
  1. `各九重の都を立つて千里の東海へ赴かれける
  2. `平らかに帰り上らん事もまことに危ふきなれば或いは野原の露に宿を借り或いは高峰の苔に旅寝をし山を越え河を重ね日数経れば十月十六日には駿河国清見関にぞ着き給ふ
  3. `都をば三万余騎で出でたれども路次の兵召し具して七万余騎とぞ聞えし
  1. `前陣は蒲原富士川に進み後陣は未だ手越宇津谷に支へたり
  2. `大将軍権亮少将維盛侍大将上総守忠清を召して
  3. `維盛が存知には足柄の山うち越え広みに出でて勝負をせん
  4. `と逸られけれども上総守申しけるは
  5. `福原を御立ち候ひし時入道殿仰せには
  6. `軍をば忠清に任せさせ給へ
  7. `とこそ仰せ候ひつれ
  8. `伊豆駿河の勢の参るべきだにも未だ見え候はず
  9. `御方の御勢は七万余騎とは申せども国々の駆武者馬も人も皆疲れ果て候ふ
  10. `関東は草も木も皆兵衛佐に従ひ付いて候ふなれば何十万騎か候ふらん
  11. `ただ富士川を前に当てて御方の御勢を待たせ給ふべうもや候ふらん
  12. `と申しければ力及ばで揺らへたり
  1. `さるほどに兵衛佐頼朝鎌倉を立つて足柄の山うち越えて木瀬川にこそ着き給へ
  2. `甲斐信濃の源氏ども馳せ来たつて一つになる
  3. `駿河国浮島原にて勢揃へあり
  4. `都合その勢二十万騎とぞ聞えし
  1. `常陸源氏佐竹太郎の雑色の主の使に文持て京へ上りけるを平家の方の侍大将上総守忠清この文を奪ひ取つて見るに女房の許への文なり
  2. `苦しかるまじ
  3. `とて取らせけり
  4. `さて当時鎌倉に源氏の勢はいかほどあるとか聞く
  5. `と問ひければ
  6. `下臈は四五百千までこそ物の数をば知つて候へそれより上は知らぬ候ふ
  7. `四五百千より多いやらう少ないやらうは知り候はず
  8. `凡そ八日九日の道にはたと続いて野も山も海も河も武者で候ふ
  9. `昨日木瀬川で人の申し候ひつるは源氏の御勢二十万騎とこそ申候ひつれ
  10. `と申しければ上総守
  1. `あな心憂や
  2. `大将軍の御心の延びさせ給ひたるほど口惜しかりける事はなし
  3. `今一日も先に討手を下させ給ひたらば大庭兄弟畠山が一族などか参らで候ふべき
  4. `これらだに参り候はば伊豆駿河の勢は皆従ひ付くべかりつるものを
  5. `と後悔すれどもかひぞなき
  1. `大将軍権亮少将維盛坂東の案内者とて長井斎藤別当実盛を召して
  2. `やや実盛汝ほどの射手八箇国にいかほどあるぞ
  3. `と問ひ給へば斎藤別当嘲笑ひて
  4. `さ候へば君は実盛を大矢と思し召され候ふにこそ
  5. `僅かに十三束こそ仕り候へ
  6. `実盛ほど射候ふ者は八箇国に幾らも候ふ
  7. `坂東に大矢と申す定の者の十五束に劣つて引くは候はず
  8. `弓の強さもしたたかなる者五六人して張り候ふ
  9. `かやうの精兵共が射候へば鎧の二三両は容易う懸けて射通し候ふなり
  10. `大名一人して五百騎に劣つて持つは候はず
  11. `馬に乗つて落つる道を知らず悪所を馳せれど馬を倒さず
  12. `軍はまた親も討たれよ子も討たれよ死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ候ふ
  1. `西国の軍と申すはすべてその儀候はず
  2. `親討たれぬれば引き退き仏事供養し忌み明けて寄せ子討たれぬればその憂へ嘆きとて寄せ候はず
  3. `兵糧米尽きぬれば春は田作り秋は刈り収めて寄せ夏は熱しと厭ひ冬は寒しと嫌ひ候ふ
  4. `東国の軍と申すはすべてそのやう候はず
  5. `甲斐信濃の源氏等案内は知りたり
  6. `富士の裾より搦手へも廻り候はんずらん
  1. `かやうに申せば大将軍の御心を臆させ参らせんと申すとや思し召され候ふらん
  2. `その儀では候はず
  3. `その故は今度の軍に命生きて二度都へ参るべしとも存じ候はず
  4. `但し軍は勢の多少にはより候はず謀によるとこそ申し伝へて候へ
  5. `と申しければこれを聞く兵共皆震ひ戦慄き合へり
  1. `さるほどに同じき十月二十四日の卯の刻に富士川にて源平の矢合せとぞ定めける
  2. `漸う二十三日の夜に入つて平家の兵共源氏の陣を見渡せば伊豆駿河の人民百姓等は軍に恐れて或いは野に入り山に隠れ或いは舟にとり乗つて海河に浮かびたるが営みの火見えけるを平家の兵共
  3. `げにも野も山も海も河も皆敵でありけり
  4. `いかがせん
  5. `とぞあきれける
  1. `その夜の夜半ばかり富士の沼に幾らもありける水鳥共が何にかは驚きたりけん一度にはつと立ちける
  2. `羽音の雷大風などのやうに聞えければ平家の兵共
  3. `あはや源氏の大勢の向こうたるは
  4. `昨日斎藤別当が申しつるやうに甲斐信濃の裾より搦手へや廻り候ふらん
  5. `取り籠められては敵ふまじ
  6. `此処を落ちて尾張川洲俣を防げや
  7. `とて取る物も取り敢へず我先にとぞ落ち行きける
  8. `あまりに周章て騒いで弓取る者は矢を知らず矢取る者は弓を知らず
  9. `我が馬は人に乗られ人の馬には我れ乗り或いは繋いだる馬に乗つて馳すれば杭を繞る事腹踏折限りなし
  10. `その辺近き宿々より遊君遊女共召し集め遊び酒盛りけるが或いは頭蹴破られ或いは腰踏み折られて喚き叫ぶ事夥し
  1. `同じき二十四日の卯の刻に源氏二十万騎富士川に押し寄せて天も響き大地も揺るぐばかりに鬨をぞ三箇度作りける