一五八一奈良炎上
原文
- `都にはまた
- `一年高倉宮園城寺へ入御の時或いは宮受け取り参らせ或いは御迎に参る条これ以て朝敵なり
- `然れば南都をも三井寺をも攻めらるべし
- `と聞えしかば奈良の大衆夥しう蜂起す
- `摂政殿より
- `存知の旨あらば幾度も奏聞にこそ及ばめ
- `と仰せ下されけれども一切用ひ奉らず
- `関白殿より御使に有官別当忠成を下されけるを大衆起つて
- `乗物より取つて引き落し髻切れ
- `と犇きければ取る物も取り敢へず急ぎ都へ上られけり
- `その時は勧学院の雑色二人が髻切られてけり
- `南都には大きなる毬杖の玉を作りてこれこそ
- `平相国の頭
- `と名付けて
- `打て
- `踏め
- `などぞ申しける
- `詞の洩らし易きは殃を招く媒なり
- `詞の慎まざるは破れを取る道なり
- `と云へり
- `かけまくも忝くこの入道相国は当今の外祖にておはします
- `それをかやうに申しける南都の大衆凡そは天魔の所為とぞ見えし
- `入道相国且々南都の騒動を鎮めんとて瀬尾太郎兼康を大和国の検非所に補せらる
- `相構へて衆徒は狼藉を致すとも汝等は致すべからず
- `物の具なせそ
- `弓箭な帯しそ
- `とて遣はされたりけるを南都の大衆かかる内議をば知らずして兼康が余勢六十余人搦め捕つて一々に皆首を斬りて猿沢の池の端にぞ懸け並べたりける
- `入道相国大きに怒りて
- `さらば南都をも攻めよや
- `とて大将軍には頭中将重衡中宮亮通盛都合その勢四万余騎南都へ発向す
- `南都にも老少嫌はず七千余人甲の緒を締め奈良坂般若寺二箇所の路を掘り切つて掻楯かき逆茂木引いて待ちかけたり
- `平家四万余騎を二手に分かつて奈良坂般若寺二箇所の城郭に押し寄せて鬨をどつと作りける
- `大衆は徒歩立ち打物なり
- `官軍は馬にて駆け廻し駆け廻し攻めければ大衆数を尽くいて討たれにけり
- `卯の刻に矢合せして一日戦ひ暮らし夜に入りければ奈良坂般若寺二箇所の城郭共に敗れぬ
- `落ち行く衆徒の中に坂四郎永覚といふ悪僧あり
- `これは力の強さ弓箭打物取つて七大寺十五大寺に勝れたり
- `萌黄威の腹巻の上に黒糸威の腹巻を重ねてぞ着たりける
- `帽子甲に五枚甲の緒を締め茅の葉の如くに反つたる白柄の大長刀黒漆の大太刀左右の手に持つままに同宿十余人前後に立て手掻門より打つて出でたり
- `これぞ暫く支へたる
- `多くの官兵馬の脚薙がれて討たれにけり
- `されども官軍は大勢にて入れ替へ入れ替へ攻めければ永覚が防ぐ所の同宿皆討たれにけり
- `永覚一人猛けれども後ろ顕になりしかば南を指してぞ落ち行きける
- `夜軍になつて大将軍頭中将重衡般若寺の門の前にうち立つて
- `暗さは暗し火を出だせ
- `と宣へば播磨国の住人福井庄下司次郎太夫友方といふ者楯を破り松明にして在家に火をぞ懸けたりける
- `比は十二月二十八日の夜なりければ折節風は烈しく火元は一つなりけれども吹き迷ふ風に多くの伽藍に吹きかけたり
- `恥をも思ひ名をも惜しむほどの者は奈良坂にて討死し般若寺にて討たれにけり
- `行歩に叶へる者は吉野十津川の方へ落ち行きける
- `歩みも得ぬ老僧や尋常なる修学者児共女童はもしや助かると大仏殿山階寺の内へ我先にとぞ逃げ入りける
- `大仏殿の二階の上には千余人登り上がり敵の続くを登せじと階を引きてけり
- `猛火は正しう押し懸けたり
- `喚き叫ぶ声焦熱大焦熱無間阿鼻の焔の底の罪人もこれには過ぎじとぞ見えし
- `興福寺は淡海公の御願藤氏累代の寺なり
- `東金堂におはします仏法最初の釈迦の像西金堂におはします自然湧出の観世音瑠璃を並べし四面の廊朱丹を交へし二階の楼九輪雲に輝きし二基の塔忽ちに煙となるこそ悲しけれ
- `東大寺は常在不滅実報寂光の生身の御仏と思し召し準へて聖武皇帝手づから磨き立て給ひし金銅十六丈の盧舎那仏烏瑟高く現れて半天の雲に隠れ白毫新たに拝まさせ給ひし満月の尊容も御頭は焼け落ちて大地にあり御身は鎔き合ひて山の如し
- `八万四千の相好は秋の月早く五重の雲に隠れ四十一地の珱珞は夜の星空しう十悪の風に漂ふ
- `煙は中天に満ち満ちて焔は虚空に隙もなく目の当たり見奉る者は更に眼を当てず遥かに伝へ聞く人は肝魂を失へり
- `法相三輪の法門聖教すべて一巻も残らず
- `我が朝は云ふに及ばず天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしとも覚えず
- `毘須羯摩の紫摩金を磨き于填大王が赤栴檀を刻みしも僅かに等身の御仏なり
- `況やこれは南閻浮提の中には唯一無双の御仏長く朽損の期あるべしとも覚えず
- `今毒焔の塵に交はつて久しく悲しみを残し給へり
- `梵釈四王龍神八部冥官冥衆も驚き騒ぎ給ふらんとぞ見えし
- `法相擁護の春日大明神いかなる事をか思しけん
- `されば春日野の露も色変はり三笠山の嵐の音も恨むる様にぞ聞えける
- `焔の中にて焼け死ぬる人数を記いたれば大仏殿の二階の上には一千七百余人山階寺には八百余人ある御堂には五百余人ある御堂には三百余人具さに記いたりければ三千五百余人なり
- `戦場にして討たるる大衆千余人少々は般若寺の門に切り懸けらる
- `少々は首共持たせて都へ上られける
- `明くる二十九日頭中将重衡卿南都滅ぼして北京へ帰り入らる
- `入道相国ばかりこそ憤り晴れて喜ばれけれ
- `中宮一院上皇も
- `悪僧をこそ滅ぼすとも伽藍を破滅すべしや
- `とぞ御嘆きありける
- `日比は衆徒の首大路を渡さるべき
- `由と公卿僉議ありしかども東大寺興福寺の滅びぬる浅ましさに何の沙汰にも及ばず此処や彼処の溝や堀にぞ捨て置きける
- `聖武皇帝の宸筆の御記文にも
- `我寺興福せば天下も興福すべし
- `我が寺衰微せば天下も衰微すべし
- `と遊ばされたる
- `されば天下の衰微せん事疑ひなしとぞ見えたりける
- `あさましかりつる年も暮れて治承も五年になりにけり