一八二新院崩御
原文
- `治承五年正月一日内裏には東国の兵革南都の火災によつて朝拝停められて主上出御もなし
- `物の音も吹き鳴らさず舞楽も奏せず
- `二日殿上の宴酔もなし吉野の国栖も参らず藤氏の公卿一人も参ぜられず
- `これは氏寺焼失によつてなり
- `男女うち潜めて禁中忌々しうぞ見えし
- `並びに仏法王法共に尽きぬる事ぞあさましき
- `法皇仰せなりけるは
- `四代の帝王思へば子なり孫なり
- `いかなれば万機の政務を停められて空しう年月を送るらん
- `とぞ御嘆きありける
- `同じき五日南都の僧綱等公請を停止し所職を没収せらる
- `衆徒は皆老いたるも若きも或いは射殺され或いは斬り殺されて煙の内を出ず炎に咽んで滅びにしかば僅かに残る輩は山林に交はつて跡を留むる者一人もなし
- `但し形のやうにても御斎会はあるべきものを
- `と僧名の沙汰ありしに南都の僧綱等皆は欠官せられぬ
- `北京の僧綱を以て行はるべきか
- `と公卿僉議ありしかどもさればとて今更南都をも捨て果てさせ給ふべきならねば三論宗の学匠成法已講が忍びつつ勧修寺に居たりけるを召し出でて御斎会形の如く遂げ行はる
- `中にも興福寺の別当華林院僧正永円は仏像経巻の煙と立ち上らせ給ふを見参らせ
- `あなあさまし
- `とて心を砕かれけるより病付いてつひに失せ給ひぬ
- `この永円は優に優しき人にておはしけり
- `ある時郭公の鳴くを聞いて
- `聞くたびにめづらしければ郭公いつもはつ音の心ちこそすれ
- `といふ歌を詠みて
- `初音の僧正
- `とは云はれ給ひけれ
- `上皇は去々年法皇の鳥羽殿に押し籠められて渡らせ給ひし御事去年高倉宮の討たれさせ給ひし御有様さしも容易からぬ天下の大事都遷など申す事に御悩つかせ給ひて御煩はしう聞えさせ給ひしが今また東大寺興福寺の滅びぬる由聞し召して御悩いとど重らせおはします
- `法皇斜めならず御嘆きありしほどに同じき十四日六波羅池殿にて新院つひに崩御なりぬ
- `御宇十二年徳政千万端詩書仁義の廃れぬる道を興し理世安楽の絶えたる跡を継ぎ給ふ
- `三明六通の羅漢も免れ給はず幻術変化の権者も遁れぬ道なれば有為無常の習ひなれども理過ぎてぞ覚えける
- `やがてその夜東山の麓清閑寺へ遷し奉り夕べの煙に比へつつ春の霞と昇らせ給ひぬ
- `澄憲法印御葬送に参り逢はんと急ぎ山より下られけるがはや空しき煙と立ち昇らせ給ふを見参らせて泣く泣くかうぞ詠じ給ひける
- `つねに見し君が御幸をけふとへばかへらぬたびと聞くぞかなしき
- `またある女房帝が隠れさせ給ひぬと承つて泣く泣く思ひ続けけり
- `雲のうへに行すゑとほく見し月のひかりきえぬと聞くぞかなしき
- `御年二十一内には十戒を保つて慈悲を先とし外には五常を濫らず礼義を正うせさせおはします
- `末代の賢王にてましましければ世の惜しみ奉る事月日の光を失へるが如し
- `かやうに人の願ひも叶はず民の果報も拙きただ人間の境こそ悲しけれ