三八四葵前
原文
- `何よりも哀れなりし事には中宮の御方に候はれける女房の召し使ひける上童思はざる外龍顔咫尺する事ありけり
- `ただ尋常白地にてもなくしてまめやか御志深かりければ主の女房も召し使はず却つて主の如くにぞ斎きもてなしける
- ``当時謡詠有㆑云
- ``生㆑男勿㆓喜歓㆒
- ``生㆑女勿㆓悲酸㆒
- ``男是不㆑封㆑候
- ``女作㆑妃
- `とて后に立つと云へり
- `めでたかりける幸ひかな
- `却つてこの人女御后とももてなされ国母仙院とも仰がれなん
- `とてその名を
- `葵前
- `と申しければ内々は
- `葵女御
- `などぞ囁き合はれける
- `主上はこれを聞し召してその後は召さざりけり
- `これは御志の尽きぬるにはあらずただ世の謗りを憚らせ給ふによつてなり
- `されば常に御眺めがちにてつやつや供御も聞し召さず
- `御悩とて常は夜の大殿にのみぞ入らせおはします
- `その時の関白松殿この由を承つて御慰め参らせんとて急ぎ御参内あつて
- `さやうに叡慮にかからせましまさんに於いては何条事か候ふべき
- `伴の女房召され参らすべしと覚え候ふ
- `科尋ねらるるに及ばず基房やがて猶子に仕り候はん
- `と奏せさせ給へば主上仰せなりけるは
- `いさとよ其処に計らひ申す事もさる事なれども位を滑つて後は間々さる例しもあるなり
- `正しう在位の時さやうの事は後代の謗りなるべし
- `とて聞し召も入れざりけれ
- `関白殿力及ばず御涙を押さへて御退出ありけり
- `その後主上緑の薄様の匂ひ殊に深かりけるに古き語なれども思ひ出でてかうぞ遊ばされける
- `しのぶれど色に出にけり我が恋はものやおもふと人のとふまで
- `冷泉少将これを賜はり次いで件の葵前に賜はせたればこれを取つて懐に入れ顔うち赤らめ
- `例ならぬ心地出で来たり
- `とて里へ帰りうち臥す事五六日してつひにはかなくなりにけり
- ``為㆓君一日恩㆒誤㆓妾百年身㆒
- `ともかやうの事をや申すべき
- `昔唐の太宗鄭仁基が娘を元観殿に入れんとせさせ給ひしを魏徴
- `かの娘既に陸氏に約せり
- `と諫め申したりければ殿に入るる事をやめられたりしには少しも違はせ給はぬ御心馳せかな
- `とぞ人申しける
書下し文
一
- ``当時謡詠に云へるあり
- ``男を生んでも喜歓する事なかれ
- ``女を生んでも悲酸する事なかれ
- ``男はこれ候にだにも封ぜず
- ``女は妃たり