原文
- `主上は恋慕の御涙に思し召し沈ませ給ひたるを申し慰め参らせんとて中宮の御方より小督殿と申す女房を参らせらる
- `そもこの女房と申すは桜町中納言重教卿の御娘並びなき美人有難き琴の上手にてぞおはしける
- `冷泉大納言隆房卿未だ少将なりし時見初めたりし女房なり
- `初めは歌を詠み文をば尽くされけれども玉章の数のみ積りて靡く気色もなかりしがさすが情に弱る心にやつひには靡き給ひけり
- `されども今は君へ参らせてせん方もなく悲しくて飽かぬ別れの悲しさに袖潮垂れて干し敢へず
- `少将
- `いかにもして小督殿を今一度見奉る事もや
- `とその事となく常は参内せられけり
- `小督殿のおはしける局の辺御簾の辺を彼方此方へ佇み歩かれけれども小督殿我君に召され参らせぬる上は少将いかに云ふとも詞をも交はすべからずとて伝の情をだにもかけられず
- `少将もしやと一首の歌を詠うで小督殿のおはしける局の内へぞ投げ入れたる
- `思ひかね心はそらにみちのくのちかのしほがまちかきかひなし
- `小督殿やがて返事もせまほしう思はれけれども君の御為御後ろめたしとや思はれけん手にだに取つても見給はず
- `やがて上童に取らせて坪の内へぞ投げ出ださる
- `少将情なう恨めしけれどもさすがに人もこそ見れと空恐しくて急ぎ取つて懐に引き入れて出でられけるがなほ立ち帰り
- `玉章をいまは手にだにとらじとやさこそこころにおもひすつとも
- `今はこの世にて逢ひ見ん事も難ければ生きて居てとにかくに人を恋しと思はんより中々死なん
- `とのみぞ願はれける
- `入道相国この由を伝へ聞き給ひて
- `中宮と申すも御娘なり冷泉少将もまた聟なりければいやいや小督があらんほどは世の中よかるまじ
- `二人の聟を取られなんず
- `いかにもして召し出だいて失はん
- `とぞ宣ひける
- `小督殿この由を聞き給ひて
- `我が身の上はいかでもありなん君の御為御心苦し
- `とや思はれけんある夜内裏をば紛れ出でて行方も知らずぞ失せられける
- `主上御嘆斜めならず御嘆きありて昼は夜の大殿にのみ入らせ給ひて御涙に沈ませおはします
- `夜は南殿に出御成つて月の光を御覧じてぞ慰せましましける
- `入道相国この由を承つて
- `さて君は小督故に思し召し沈せ給ひたんなり
- `さらんに取つては
- `とて御介錯の女房達をも参らせず参内し給ふ臣下をも嫉まれければ入道の権威に憚つて参り通ふ人一人もなし
- `男女うち潜めて禁中忌々しうぞ見えし
- `比は八月十日余りさしも隈なき空なれども主上は御涙に曇らせ給ひ月の光も朧にぞ御覧じける
- `やや深更に及んで
- `人やある人やある
- `と召されけれども御答へ申す者もなし
- `ややあつて弾正少弼仲国その夜しも御宿直に参つて遥かに遠う候ひけるが
- `仲国
- `と御答へ申す
- `汝近う参れ
- `仰せ下さるべき旨あり
- `と仰せければ
- `何事やらん
- `とて御前近うぞ参じたる
- `汝もし小督が行方や知つたる
- `と仰せければ
- `いかでか知り参らせ候ふべき
- `と申す
- `まことや
- `小督は嵯峨の辺に片折戸とかやしたる内にあり
- `と申す者のあるぞとよ
- `主が名をば知らずとも尋ねて参らせてんや
- `と仰せければ仲国
- `主が名を知り候はではいかでか尋ね逢ひ参らせ候ふべき
- `と申しければ主上
- `げにも
- `とて御涙塞きも敢へさせましまさず
- `仲国つくづくと物を案ずるに
- `まことや小督殿は琴弾き給ひしぞかし
- `この月の明るさに君の御事思ひ出で参らせて琴弾き給はぬ事はよもあらじ
- `日比御所にて琴弾き給ひし時仲国笛の役に召され参らせしかばその琴の音は何処にても聞き知らんずるものを
- `嵯峨の在家幾ほどかあらんうち廻つて尋ねんになどか聞き出ださであるべき
- `と思ひ
- `さ候はば主が名は知り候はずとも尋ね参らせ候ふべし
- `たとひ尋ね逢ひ参らせて候ふとも御書など候はでは上の空とや思し召され候はんずらん
- `御書を賜はつて参り候はん
- `と申しければ主上
- `まことにも
- `とてやがて御書を遊ばいてぞ下されけり
- `寮の御馬に乗りて行け
- `と仰せける
- `仲国寮の御馬賜つて明月に鞭を挙げ其処とも知らずぞ憧れける
- `折片戸したる屋を見付けては
- `この中にもやおはすらん
- `と控へ控へ聞きけれども琴弾く所はなかりけり
- `御堂などへも参り給へる事もや
- `と釈迦堂を始めて堂々見廻れども小督殿に似たる女房だにもなかりけり
- `空しう帰り参たらんは参らざらんより中々悪しかるべし
- `これよりも何方へも迷ひ行かばやとは思へども何処か王地ならぬ身を隠すべき宿もなし
- `いかがせん
- `と案じ煩ふ
- `まことや法輪はほど近ければ月の光に誘はれて参り給へる事もや
- `と其方へ向かひてぞ歩ませける
- `亀山の辺近く松の一叢ある方に幽かに琴ぞ聞えける
- `峰の嵐か松風か尋ぬる人の琴の音か覚束なくは思へども駒を早めて行くほどに片折戸したる内に琴をぞ弾き澄まされたる
- `控へてこれを聞きければ少しも紛ふべうもなく小督殿の爪音なり
- `楽は何ぞと聞きければ
- `夫を想ふて恋ふ
- `と詠む
- `想夫恋
- `といふ楽なりけり
- `さればこそ君の御事も思ひ出で参らせて楽こそ多けれこの楽を弾き給ふ事の優しさよ
- `と思ひ腰より横笛抜き出だしちつと鳴らいて門をほとほとと叩けば琴をばやがて弾き止みぬ
- `これは内裏より仲国が御使に参つて候ふ
- `開させ給へ
- `とて叩けけども叩けども咎むる人もなかりけり
- `ややあつて内より人の出づる音しけり
- `嬉しう思ひて待つ処に鎖を外し門を細目に開け幼気したる小女房の顔ばかり差し出だいて
- `これはさやうに内裏より御使など給はるべき所でも候はず
- `もし門違へてぞ候ふらん
- `と云ひければ仲国
- `返事せば門立てられ鎖さされなんず
- `とや思ひけん是非なく押し開けてぞ入りにける
- `妻戸の際の縁に居て
- `何とてかやうの所には御渡り候ふやらん
- `君は御故に思し召し沈ませ給ひて御命も既に危ふくこそ見えさせましまし候へ
- `かやうに申さば上の空とや思し召され候ふらん
- `御書を賜はつて参つて候ふ
- `とて取り出だいて奉る
- `ありつる女房取り次いで小督殿にぞ参らせける
- `これを開けて見給ふにまことに君の御書にてぞありける
- `やがて御返事書いて引き結び女房の装束一重添へてぞ出だされたる
- `仲国女房の装束をば肩にうち懸け
- `これは余の御使などで候はんには御返事の上は申すに及び候はねども日比内裏にて御琴遊ばされ候ひし時仲国も笛の役に召され参らせ候ひしその時の奉公をばいかばかりとか思し召され候ふらん
- `直の御返事を承ずして帰り参らんは本意なかるべし
- `と申しければ小督殿
- `げにも
- `とや思はれけん自ら返事し給ひけり
- `其処にも聞き給ひつらん
- `入道相国あまりに恐ろしき事をのみ申すと聞きしがあさましさに我が身の上はとてもありなん君の御為御心苦しさにある暮れ方に密かに内裏をば紛れ出でて今はかかる住まひなれば琴など弾く事もなかりしが明日よりは大原の奥に思ひ立つ事の候へば主の女房今夜ばかりの名残を惜しみ
- `今は夜も更けぬ立ち聞く人もあらじ
- `など勧むる間さぞな昔の名残もさすがゆかしくて手慣れし琴を弾くほどに易うも聞き出だされけりな
- `とて涙も塞き敢へ給はねば仲国も袖をぞ絞りける
- `ややあつて仲国涙を押さへて申しけるは
- `明日よりは大原の奥へ思し召し立つ事と候ふは定めて御様などもや変へさせ給ひ候はんずらん
- `然るべうも候はず
- `さて君をば何とかし参らせ給ふべき
- `努々叶ひ候ふまじ
- `相構へてこの女房出だし参らすな
- `とて供に召し具したる馬部吉上など留め置きその屋を守護せさせ我が身は寮の御馬にうち乗つて内裏へ帰り参つたれば夜は仄々とぞ明けにける
- `今は入御もなりぬらん
- `誰してか申すべき
- `と思ひ寮の御馬繋がせ賜はりつる女房の装束をば跳ね馬の障子に投げかけて南殿の方へ参るほどに主上は未だ夜辺の御座にぞましましける
- ``南翔北嚮難㆑付㆓寒温於秋雁㆒
- ``東出西流只寄㆓瞻望於暁月㆒
- `と御心細げにうち詠めさせ給ふ処に仲国つつと参りつつ小督殿の御返事をこそ参られけれ
- `主上斜めならずに御感あつて
- `さらば汝やがて夕さり具して参れ
- `と仰せける
- `仲国入道相国の帰り聞き給はんところは恐ろしけれどもこれまた勅諚なれば雑色牛飼牛車に至るまで清げに沙汰して嵯峨へ行き向かふ
- `小督殿参るまじき由宣へどもやうやうに拵へ奉つて車に乗せ奉り内裏へ参りたりければ幽かなる所に忍ばせて夜な夜な召され参らせけるほどに姫宮御一所出で来させ給ひけり
- `坊門女院とはこの女院の御事なり
- `入道相国
- `小督が失せたりといふは跡形もなき虚言なり
- `とて何とかしてかは謀り出だされたりけん小督殿を捕らへつつ尼に成してぞ追つ放つたる
- `歳二十三
- `出家はもとよりの望みなりけれども心ならず尼に成され濃き墨染に引き替へて嵯峨の辺にぞ住まれける
- `無下にぞうたてき事共なり
- `主上はかやうの事共に御悩つかせ給ひてつひに御隠れありけるとぞ聞えし
- `法皇うち続き御嘆きのみぞ繁かりける
- `去んぬる永万には第一皇子二条院崩御成りぬ
- `安元元年七月には御孫六条院隠れさせ給ひぬ
- `天に住まば比翼の鳥地に在らば連理の枝と成らん
- `と漢河の星を指してさしも御契り浅からざりし建春門院秋の霧に犯されて朝の露と消えさせ給ひぬ
- `年月は隔たれども昨日今日の御嘆きのやうに思し召して御涙も未だ尽きせざるに治承四年の五月には第二皇子高倉宮討たれさせ給ひぬ
- `現世後生頼み思し召されつる新院さへ先立たせ給ひぬればとにかくに託つ方なき御涙のみぞ進みける
- `悲しみの至つて悲しきは老いて後子に後れたるよりも悲しきは無し
- `恨みの至つて恨めしきは若うして親に先立つよりも恨めしきは無し
- `とかの朝綱相公の子息澄明に後れて書いたりける筆の跡今こそ思し召し知られけれ