七八八入道死去
原文
- `同じき二十三日院の殿上にて俄に公卿僉議あり
- `前右大将宗盛卿申されけるは
- `今度坂東へ討手は向かふたりといへどもさせるし出だしたる事もなし
- `今度は宗盛大将軍を承つて東国北国の凶徒等を追討すべき
- `由申されければ諸卿色代して
- `ゆゆしう候ひなんず
- `とぞ申されける
- `法皇大きに御感ありけり
- `公卿殿上人も武官に備はり少しも弓箭に携はらんほどの人々は宗盛を大将軍にて東国北国の凶徒等追討すべき
- `由仰せ下さる
- `同じき二十七日門出だして既にうち立たんとし給ひける
- `夜半ばかりより入道相国違例の心地とて留まり給ひぬ
- `明くる二十八日重病を受け給へりとて聞えしかば京中六波羅
- `すはしつるは
- `さ見つる事よ
- `とぞ申しける
- `入道相国病付き給ひし日よりして湯水も喉へ入れられず
- `身の内の熱き事火を焚くが如し
- `ただ宣ふ事とては
- `あたあた
- `とばかりなり
- `臥し給へる所四五間が内へ入る者は熱さ堪へ難し
- `少しも只事とは見え給はず
- `あまりの堪へ難さにや比叡山より千手井の水を汲み下し石の舟に湛へそれに下りて冷え給へば水沸き上がつてほどなく湯にぞなりにける
- `もしやと筧の水を撒かすれば石や鉄などの焼けたるやうに水迸りて寄りつかず
- `自づから当たる水は焔となつて燃えければ黒煙殿中に満ち満ちて炎渦巻いてぞ上がりける
- `これや昔法蔵僧都といひし人閻王の請に赴いて母の生所を尋ねしに閻王憐れみ給ひて獄卒を相副へて焦熱地獄へ遣はさる
- `鉄の門の内へ差し入つて見れば流星などの如くに炎空へ立ち昇り多百由旬に及びけんもかくやとぞ覚えける
- `また入道相国の北方八条の二位殿の夢に見給ひける事こそ恐ろしけれ
- `たとへば猛火の夥しう燃えたるに車の主もなきを門の内へ遣り入れたり
- `二位殿夢の心に
- `あれは何処よりぞ
- `と問ひ給へば
- `閻魔王宮より平家太政入道殿の御迎に参つて候ふ
- `と申す
- `車の前後に立つたる者共は或いは牛の面のやうなる者もあり或いは烏の面のやうなる者もあり
- `車の前には
- `無
- `といふ文字ばかり顕れたる鉄の札をぞ立てたりける
- `二位殿
- `さてその札は何の札ぞ
- `と宣へば
- `南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏焼き滅ぼし給へる罪によつて無間の底に沈み給ふべき
- `由閻魔の庁に御定め候ふが無間の
- `無
- `をば書かれたれども未だ
- `間
- `の字をば書かれぬなり
- `とぞ申しける
- `二位殿夢覚めて後汗水になりつつこれを人に語り給へば聞く人皆身の毛よだちけり
- `霊仏霊社へ金銀七宝を投げ馬鞍鎧甲弓矢太刀刀に至るまで取り出で運び出だして祈り申されけれども叶ふべしとも見え給はず
- `ただ男女の君達跡枕に差し集ひて嘆き悲しみ給ひけり
- `閏二月二日二位殿熱さ堪へ難けれども入道相国の御枕の上に寄つて
- `御有様見奉るに日に添へて頼み少なうこそ見えさせおはしませ
- `物の少し覚えさせ給ふ時思し召し置く事あらば仰せられ置け
- `とぞ宣ひける
- `入道相国日比はさしもゆゆしうにおはせしかども世にも苦しげにて息の下にて宣ひけるは
- `当家は保元平治より以来度々の朝敵を平らげ勧賞身に余り忝くも一天の君の御外戚にて丞相の位に至り栄花既に子孫に残す
- `今生の望みは一事も思ひ置く事なし
- `但し思ひ置く事とては兵衛佐頼朝が首を見ざりつるこそ安からね
- `我いかにも成りなん後仏事孝養をもすべからず
- `堂塔をも建つべからず
- `急ぎ討手を下し頼朝が首を刎ねて我が墓の前に懸けさすべし
- `それぞ我が思ふ事よ
- `と宣ひけるこそ恐ろしけれ
- `同じき四日もしや助かると板に水を沃てそれに臥し転び給へども助かる心地もし給はず
- `悶絶躃地してつひに熱死にぞし給ひける
- `馬車の馳せ違ふ音は天も響き大地も揺るぐばかりなり
- `一天の君万乗の主のいかなる御事ましますともこれには過ぎじとぞ見えし
- `年は六十四にぞ成られける
- `老死と云ふべきにはあらねども宿運忽ちに尽きぬれば大法秘法の効験もなく神明三宝の威光も消え諸天も擁護し給はず
- `況や凡慮に於いてをや
- `身に代はり命に代はらんと忠を存ぜし数万の軍旅は堂上堂下に並み居たれどもこれは目にも見えず力にも関はらぬ無常の刹鬼をば暫時も戦ひ返さず
- `また帰り来ぬ死出の山三瀬川黄泉中有の旅の空にただ一人こそ赴かれけれ
- `日比作り置かれし罪業ばかりこそ獄卒と成つて迎ひにも来たりけめ
- `哀れなりし事共なり
- `さてしもあるべきならねば同じき七日に愛宕にて煙に成し奉り骨をば円実法眼首に懸けて摂津国へ下り経島にぞ納めける
- `さしも日本一州に名を揚げ威を振つし人なれども身は一時の煙となつて炎空へ立ち上り屍は暫し休らひて浜の真砂に戯れつつ空しき土とぞなり給ふ