八八九経島
原文
- `葬送の夜不思議の事ありけり
- `玉を延べ金銀を鏤めて作られたりける西八条殿その夜俄に焼けにけり
- `何者の為業にやありけん放火とぞ聞えし
- `また六波羅の南に当たつて人ならば二三十人が声して
- `嬉しや水鳴るは滝の水
- `といふ拍子を出だいて舞ひ踊りどつと笑ふ声しけり
- `去んぬる正月には上皇隠れさせ給ひて天下諒闇になりぬ
- `僅かに一両月を隔てて入道相国薨ぜられぬ
- `心無き賤しき者もいかが憂へざるべき
- `いかさまこれは天狗の所為
- `といふ沙汰にて平家の侍の中に逸り男の兵共百余人笑ふ声についてこれを尋ぬるに院御所法住寺殿にはこの二三箇年は院も渡らせ給はず御所預備前前司基宗といふ者あり
- `かの基宗が相知つたる者共酒を持ちて来集まり
- `かかる折節に音なせそ
- `とて飲みけるが次第に飲み酔ひてかやうに舞ひ踊りけるなり
- `六波羅の兵共はつと押し寄せ酒に酔ひたる者共二三十人搦め捕りて六波羅へ率て参り坪の内に引つ据ゑさせ前右大将宗盛卿大床に立つて事の子細を尋ね聞き給ひて
- `げにもさやうにのみ酔ひたらんずる者を左右なう斬るべきやうなし
- `とて皆帰されけり
- `上下人の失せぬる後には朝夕に鐘打ち鳴らし例時懺法読む事は常の習ひなれどもこの禅門薨ぜられて後は聊か供仏施僧の営みといふ事もなし
- `朝夕はただ軍合戦の謀をぞ廻らしける
- `凡そは最後の所労の有様共こそうたてけれどもまことには只人とも覚えぬ事共多かりけり
- `日吉社へ参り給ひしにも当家他家の公卿多く供奉して
- `摂籙の臣の春日御参詣宇治入りなど申すともこれにはいかでか勝るべき
- `とぞ人申しける
- `何事よりもまた福原の経島築いて上下往来の舟の今の世に至るまで煩ひなきこそめでたけれ
- `かの島は去んぬる応保元年二月上旬に築き始められたりけるが同じき年の八月二日俄に大風吹き大波立つて皆揺り失ひてき
- `同じき三年三月下旬に阿波民部重能を奉行にて築かれけるに
- `人柱立てらるべし
- `など公卿僉議ありしかども
- `それは中々罪業なるべし
- `とて石の面に一切経を書いて築かせられたりける故にこそ
- `経島
- `とは名付けけれ