九九〇慈心房
原文
- `古い人の申しけるは
- `清盛公は只人にあらず慈恵僧正の化身なり
- `その故は摂津国清澄寺の聖慈心房尊恵と申ししはもと叡山の学僧多年法華の持者なり
- `然るを道心を発し離山してこの寺に住みけるを人皆帰依しけり
- `去んぬる承安二年十二月二十二日の戌の刻ばかり脇息に懸かつて法華経読み奉りける処に夢ともなく現ともなく浄衣に立烏帽子着て藁鞋脛巾したる男二人立文を持つて来たりたり
- `尊恵夢の内に
- `あれは何処よりぞ
- `と問ひ給へば
- `閻魔王宮よりの宣旨の候ふ
- `とて尊恵に渡す
- `尊恵これを開いて見るに
- `南閻浮提大日本国摂津国清澄寺の聖慈心房尊恵来たる二十六日閻魔羅城大極殿にして十万部の法華経を転読せらるべきなり
- `よつて参勤すべし
- `閻王宣によつて屈請如㆑件
- `承安二年十二月二十二日閻魔庁
- `とぞ書かれたる
- `尊恵辞み申すに及ばねばやがて領状の請文を奉ると覚えて夢覚めぬ
- `これを院主の光影房に語りたりければ聞く人身の毛よだちけり
- `その後は偏に死去の思ひをなして口には弥陀の名号を唱へ心に引摂の悲願を念ず
- `同じき二十五日の夜に入りてまた常住の仏前に参り例の如く念仏読経す
- `子の刻ばかり眠り切なるが故に住房に帰つてうち臥す
- `丑の刻ばかりまた先の如くに男二人来たつて疾う疾う勧むる間尊恵参詣致さんとすれば衣鉢更に無し
- `閻王宣を辞せんとすれば甚だその恐れあり
- `この思ひをなす処に法衣自然に身に纏て肩にかかり天より金の鉢下る
- `二人の従僧二人の童子十人の下僧七宝の大車寺坊の前に現ず
- `尊恵即時に車に乗り従僧等西北に向かつて虚空を翔けると覚えてほどなく閻魔王宮に至りぬ
- `王宮の体を見るに外郭渺々としてその内昿々たり
- `その中に七宝所成の大極殿あり
- `高広金色にして凡夫の眼に及び難し
- `その日の法会終つて後余僧等皆帰る時尊恵は大極殿の中門に立つて遥かの大極殿を見渡せば冥官冥衆皆閻魔法王の御前に畏る
- `有難き参詣なり
- `この序でに後生の罪障を尋ね申さん
- `と思つて歩み向かふ
- `その間に二人の従僧箱を持ち二人の童子蓋を差し十人の下僧列を引いて漸う歩み近づく時閻魔法王冥官冥衆悉く下り迎ふ
- `薬王菩薩勇施菩薩二人の従僧に変じ多聞持国二人の童子に現ず
- `十羅刹女十人の下僧に変じて随逐給仕し給へり
- `閻王問うて曰く
- `余僧皆帰り去んぬ
- `御房一人来たる事いかん
- `尊恵
- `後生の罪障を尋ね申さんが為なり
- `閻王
- `往生不往生は人の信不信にあり
- `と云々
- `閻王また冥官に勅して仰せけるは
- `この御房作善の文箱南方の宝蔵にあり
- `取り出だし一生の行化他の碑文を見せ奉れ
- `とぞ宣ひける
- `冥官畏り承つて南方の宝蔵に行いて一つの文箱を取つて参り即ち蓋を開いて読み聞かす
- `冥官筆を染めて一々にこれを書く
- `尊恵悲嘆啼泣して
- `ただ願くは出離生死の方法を教へ証大菩提の直道を示し給へ
- `と泣く泣く申されければ閻王哀愍教化して種々の偈を誦す
- `妻子王位財眷属
- `死去無一来相親
- `常随業鬼繋縛我
- `苦受叫喚無辺際
- `この偈を誦し終つて尊恵に付属す
- `尊恵斜めならず悦び
- `南閻浮提大日本国に平大相国と申す人こそ摂津国和田御崎を点じて四面十余町に屋を建て今日の十万僧会の如く多くの持経者を屈請して坊々に一面に座に着け念仏読経丁寧に勤行致され候ふ
- `と申す
- `閻王随喜感嘆して
- `件の入道は只人にはあらずまことは慈恵僧正の化身なり
- `その故は天台の仏法護持の為に仮に日本に再誕する故に我かの人を一日に三度礼する文あり
- `件の入道に得さすべし
- `とて
- `敬礼慈恵大僧正
- `天台仏法擁護者
- `示現最初将軍身
- `悪業衆生同利益
- `この偈を誦し終つて尊恵にまた付属す
- `尊恵悦びの涙を流いて南方の中門を出づる時官衆等十人車の前後に随ひ東国に向かつて空を翔けりほどなく帰り来たるかと覚えて夢の心地して生き出ぬ
- `その後都へ上り入道相国の西八条の亭に行いてこの由申したりければ入道相国斜めならず悦びやうやうにもてなし様々の引出物共賜うでその勧賞には律師に成されけるとぞ聞えし
- `それよりしてこそ清盛公をば慈恵僧正の化身とは人皆知りてけれ
- `持経上人は弘法大師の再誕白河院はまた持経上人の化身なり
- `この君は功徳の林を成し善根の徳を重ねさせおはします
- `末代にも清盛公悪業も善根も共に功を積んで世の為人の為に自他の利益を成すと見えたり
- `かの達多と釈尊の同じき衆生の利益に異ならず