一〇九一祇園女御
原文
- `また古い人の申しけるは
- `清盛公は只人にはあらずまことには白河院の皇子なり
- `その故は去んぬる永久の比ほひ祇園女御とて幸人おはしき
- `件の女房の住まひ所は東山の麓祇園の辺にてぞありける
- `白河院常は御幸成る
- `ある時殿上人一両人北面少々召し具して忍びの御幸ありしに比は皐月二十日余りまだ宵の事なるに五月雨さへ掻き暗しよろづ物いぶせかりける折節件の女房の宿所近う御堂あり傍らより光る物こそ出で来たれ
- `頭には銀の針を磨き立てたるやうに燦めき左右の手と思しきを差し上げたるを見れば片手には槌のやうなる物を持ち片手には光る物をぞ持たりける
- `これぞまことの鬼と覚ゆる
- `手に持てる物は聞ゆる打出の小槌なるべし
- `いかがせん
- `君も臣も大きに騒がせおはします
- `その時忠盛北面の下臈にて供奉せられたりけるを御前へ召して
- `あの者射殺し斬りも停めなんや
- `と仰せければ畏り承つて歩み向かふ
- `忠盛内々思ひけるは
- `この者さしも猛き者とは見えず
- `思ふに狐狸などにてぞあるらん
- `これを射も殺し斬りも留めたらんは無下に念なからまし
- `同じくは生捕にせん
- `と思つて歩み向かふ
- `とばかりあつてははつと光りとばかりあつてはさつと光り二三度しけるを忠盛走り寄つてむずと組む
- `組まれて
- `こはいかに
- `と騒ぐ
- `変化の者にてはなかりけり
- `はや人にてぞ候ひける
- `その時上下手々に火を点いてこれを御覧じ見給ふに六十ばかりの法師なり
- `たとへば御堂の承仕法師でありけるが御明しを参らせんとて片手には平瓶といふ物に油を入れて持ち片手には土器に火を入れてぞ持つたりける
- `雨は沃に沃て降る
- `濡れじとて頭に小麦の藁を引き結んで被いたりけるが小麦の藁が土器の火に輝いて銀の針の如くには見えけるなり
- `事の次第一々に皆顕れにけり
- `これを射も殺し斬りも留めたらんはいかに念なからまし
- `忠盛が振舞ひこそ殊に思慮深けれ
- `弓矢取は優しかりけるものかな
- `とてさしも御最愛と聞えし祇園女御を忠盛にこそ下されけれ
- `この女御院の御子を孕み給へり
- `女御の生めらん子女子ならば朕が子にせん
- `男子ならば忠盛取りて弓矢取に為立てよ
- `とぞ仰せける
- `即ち男を生めり
- `事に触れては披露せざりけれども内々にはもてなしけり
- `この事いかにもして奏せばや
- `と思はれけれども然るべき便宜もなかりけるがある時白河院熊野へ御幸成る
- `紀伊国糸鹿坂といふ所に御輿舁き据ゑさせ暫く御休息ありけり
- `その時忠盛薮に幾らもありけるむかごを袖に盛り入れて御前へ参り畏つて
- `いもが子ははふほどにこそ成にけれ
- `と申されたりければ院やがて御心得あつて
- `ただもりとりてやしなひにせよ
- `とぞ付けさせましましける
- `さてこそ我が子とはもてなされけれ
- `この若君あまりに夜泣きをし給ひしかば院聞し召されて一首の御詠を遊いてぞ下されける
- `よなきすとただもり立てよ末の代にきよくさかふる事もこそあれ
- `それよりしてこそ
- `清盛
- `とは名乗られけれ
- `十二の歳兵衛佐に成り十八の歳四品して
- `四位兵衛佐
- `と申ししを子細存知せぬ人は
- `華族の人こそかうは
- `と申されければ鳥羽院も知ろし召して
- `清盛が華族は人に劣らじ
- `とこそ仰せけれ
- `昔も天智天皇孕み給へる女御を大織官に賜ふとて
- `この女御の生めらん子女子ならば朕が子にせん
- `男子ならば臣が子にせよ
- `と仰せけるに即ち男を生めり
- `多武峰の本願定恵和尚これなり
- `上代にもかかる例しありければ末代にも清盛公まことに白河院の皇子としてさしも容易からぬ天下の大事都遷などといふ事も思ひ立たれけるにこそ