三九七竹生島詣
原文
- `大将軍維盛通盛は進み給へども副将軍忠度経正清房知教などは未だ近江国塩津貝津に控へたり
- `中にも経正は詩歌管絃の道に長じ給へる人にておはしければある朝湖の端にうち出で遥かの島を見渡して供に候ふ藤兵衛有教を召して
- `あれをば何処と云ふぞ
- `と問ひ給へば
- `あれこそ聞え候ふ竹生島にて候へ
- `と申しければ経正
- `さる事あり
- `いざや参らん
- `とて藤兵衛有教安衛門守教以下侍五六人召し具して小舟に乗り竹生島へぞ参られける
- `比は卯月中の八日の事なれば緑に見ゆる梢には春の情を残すかと疑はれ澗谷の鶯舌声老いて初音ゆかしき郭公折知顔に告げ渡る
- `松に藤波咲きかかつてまことに面白かりければ経正急ぎ舟より下り岸に上つてこの島の景色を見給ふに心も詞も及ばれず
- ``彼秦皇漢武或遣㆓童男丱女㆒或使㆘㆓方士㆒求㆗不死薬㆖
- ``不㆑見㆓蓬莱㆒竟不㆑還
- `と云つて徒らに舟の内にて老い天水茫々として求め得ざりけん蓬莱洞の有様もこれには過ぎじとぞ見えし
- `ある経の文に曰く
- `閻浮提の内に湖あり
- `その中に金輪際より生ひ出でたる水精輪の山あり
- `天女栖む所
- `と云へり
- `即ちこの島の御事なり
- `経正明神の御前に蹲い居つつ
- `それ大弁功徳天は往古の如来法身の大士なり
- `弁才妙音二天の名は各別なりとは申せども本地一体にして衆生を済度し給へり
- `一度参詣の輩は所願成就円満すと承る
- `頼もしうこそ候へ
- `とて静かに法施参らせて居給へば漸う日暮れ居待の月指し出でて海上も照り渡り社壇もいよいよ輝いてまことに面白かりければ常住の僧共
- `これは聞ゆる御事なり
- `とて御琵琶を奉る
- `経正これを取つて弾き給ふに上玄石上の秘曲には宮の内も澄み渡りまことに面白かりければ明神も感応に堪へずや思しけん経正の袖の上に白龍現じて見え給へり
- `経正有難う忝く覚えて悦びの涙塞き敢へ給はず
- `やや暫く御琵琶を差し置きかうぞ思ひ続け給ふ
- `千はやぶる神にいのりのかなへばやしるべも色のあらはれにけり
- `目の前にて朝の怨敵を平らげ凶徒を滅ぼさん事疑ひなし
- `と悦んでまた舟に乗り竹生島をぞ出でられける
書下し文
一
- ``かの秦皇漢武或いは童男丱女を遣はし或いは方士をして不死の薬を求めしむ
- ``蓬莱を見ずしてつひに還らず