原文
- `木曾殿宣ひけるは
- `平家は大勢であんなれば軍は定めて懸合の軍にてぞあらんずらん
- `懸合の軍といふは勢の多少による事なれば大勢嵩に懸けて取り籠められては叶ふべからず
- `まづ謀に白旗三十流先立て黒坂の上に打ち立てたらば平家これを見て
- `あはや源氏の先陣は向かうたるは
- `敵は案内者御方は無案内なり
- `この山は四方岩石であんなれば搦手よも廻らじ
- `暫し下り居て御方の勢待たん
- `とて砥浪山中にぞ下り居んずらん
- `その時義仲暫くあひしらふ体にもてないて日を待ち暮らし夜に入つて平家の大勢後ろの倶利迦羅谷へ追ひ落さん
- `とてまづ白旗三十流黒坂の上にぞ打ち立てたれば案の如く平家これを見て
- `あはや源氏の大勢の向かうたるは
- `取り籠められては叶ふまじ
- `敵は案内者御方は無案内なり
- `この山は四方巌石であんなれば搦手よも廻らじ
- `馬の草飼水便共によげなり
- `暫く下り居て馬休めん
- `とて砥浪山の山中猿馬場といふ所にぞ下り居たる
- `木曾は羽丹生に陣取つて四方をきつと見廻せば夏山の峰の緑の木の間より朱の玉垣仄見えて片殺作りの社あり
- `前に鳥居ぞ立つたりける
- `木曾殿国の案内者を召して
- `あれをば何処と申すぞ
- `いかなる神を崇め奉るぞ
- `と宣へば
- `あれこそ八幡にて渡らせ給ひ候へ
- `やがて八幡の御領で候ふ
- `と申す
- `木曾殿斜めならずに悦び手書に具せられたる大夫房覚明を召して
- `義仲こそ何となう寄すると思ひたれば幸ひに新八幡の御宝殿に近づき奉つて合戦を既に遂げんとすれ
- `さらんにとては且つは後代の為且つは当時の祈祷の為に願書を一筆参らせんと思ふはいかに
- `と宣へば覚明
- `然るべう候ふ
- `とて急ぎ馬より飛んで下り木曾殿の御前に畏る
- `覚明がその日の為体褐の直垂に黒糸威の鎧着て黒漆の太刀を帯き二十四差いたる黒保呂の矢負ひ塗籠籐の弓脇に挟み甲をば脱いで高紐に懸け箙の方立より小硯畳紙取り出で願書を既に書かんとす
- `あつぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける
- `入道大きに怒つて
- `何条その信救めが浄海ほどの者を平氏の糠糟武家の塵芥と書くべきやうこそ奇怪なれ
- `急ぎその法師搦め捕つて死罪に行へ
- `と宣ふ間これによつて南都には堪へずして北国へ落ち下り木曾殿の手書して
- `大夫坊覚明
- `とぞ云はれける
- ``義仲苟生㆓弓馬之家㆒纔継㆓箕裘之塵㆒
- ``案㆓彼暴悪㆒不㆑能㆑顧㆓思慮㆒
- ``任㆓運於天道㆒投㆓身於国家㆒
- ``試起㆓義兵㆒欲㆑退㆓凶器㆒
- ``然戦闘雖㆑合㆓両家陣㆒士卒未㆑得㆓一致勇㆒間怕㆓区心㆒処今一陣挙㆑旗戦場忽拝㆓三所和光之社壇㆒
- ``機感純熟明也
- ``凶徒誅戮無㆑疑
- ``欽喜翻涙渇仰染㆑肝
- ``就㆑中曾祖父前陸奥守義家朝臣帰㆓付身於宗廟之氏族㆒自㆑号㆓名於八幡太郎㆒来為㆓其門葉㆒者無㆑不帰敬㆒
- ``義仲為㆓其後胤㆒傾㆑首年久
- ``今起㆓此大功㆒譬如㆘以㆓嬰児貝㆒測㆓巨海㆒怒㆓蟷螂斧㆒向㆗龍車㆖
- ``雖㆑然為㆑国為㆑君而起㆑之
- ``全為㆑身為㆑家而不㆑起㆑之
- ``志之至神感在㆑空
- ``憑哉悦哉
- ``伏願冥顕加㆑威霊神合㆑力決㆓勝一時㆒退㆓四方怨㆒
- ``然則可㆘丹祈叶㆓冥慮㆒玄鑑成㆗加護㆖先使㆑見㆓一瑞相㆒
- ``寿永二年五月十一日
- ``源義仲敬白
- `と書いて我が身をはじめ十三騎が上矢の鏑を抜き願書に取り副へて大菩薩の御宝殿にぞ納めける
- `頼もしきかな八幡大菩薩真実の志二つ無きをや遥かに照覧し給ひけん雲の中より山鳩三つ飛び来て源氏の白旗の上に翩翻す
- `昔神功皇后新羅を攻めさせ給ひし時御方の戦ひ弱く異国の軍強うして既にかうと見えし時皇后天に御祈誓ありしかば霊鳩三つ飛び来て御方の楯の面に顕れて異国の軍敗れにけり
- `またこの人々の先祖頼義朝臣貞任宗任を攻め給ひし時御方の戦ひ弱く凶賊の軍強くして既にかうと見えし時頼義朝臣敵の陣に向かつて
- `これは全く私の火にはあらず
- `神火なり
- `とて火を放つ
- `風忽ちに夷賊の方へ吹き覆ひ厨川の城焼け落ちぬ
- `その後軍敗れて貞任宗任滅びにけり
- `木曾殿かやうの先蹤を思し召し出でて急ぎ馬より下り甲を脱ぎ手水嗽をして今霊鳩を拝し給ひける心の内こそ頼もしけれ
書下し文
一
- ``義仲苟も弓馬の家に生れて僅かに箕裘の塵を継ぐ
- ``かの暴悪を案ずるに思慮を顧みるに能はず
- ``運天道に任せて身を国家に投ぐ
- ``試みに義兵を起して凶器を退けんとす
- ``然るを戦闘両家の陣を合はすといへども士卒未だ一致の勇を得ざる間まちまちの心怖れたる処に今一陣旗を挙ぐる戦場にして忽ちに三所和光の社壇を拝す
- ``機感の純熟明らかなり
- ``凶徒誅戮疑ひなし
- ``欽喜涙こぼれて渇仰肝に染む
- ``就中曾祖父前陸奥守義家朝臣身を宗廟の氏族に帰付して名を八幡太郎と号せしより以来その門葉たる者帰敬せずといふこと無し
- ``義仲その後胤として首を傾けて年久し