八一〇二実盛最期
原文
- `落ち行く勢の中に武蔵国の住人長井斎藤別当実盛は存する旨ありければ赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧着て鍬形打つたる甲の緒を締め金作りの太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ滋籐の弓持つて連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが御方の勢は落ち行けどもただ一騎返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ
- `木曾殿の方より手塚太郎進み出でて
- `あな優し
- `いかなる人にて渡らせ給へば御方の御勢は皆落ち行き候ふにただ一騎残らせ給ひたるこそ優に覚え候へ
- `名乗らせ給へ名乗らせ給へ
- `と詞をかければ斎藤別当聞いて
- `かう言ふ和殿は誰ぞ
- `信濃国の住人手塚太郎金刺光盛
- `とこそ名乗りたれ
- `斎藤別当
- `さては汝が為によい敵ぞ
- `但し和殿下ぐるにはあらず
- `存ずる旨があれば名乗る事はあるまじいぞ
- `寄れ組まう手塚
- `とて馳せ並ぶる処に手塚郎等主を討たせじと中に隔たり斎藤別当に押し並べてむずと組む
- `実盛
- `あつぱれ己は日本一の剛の者に組んでうずなうれ
- `とて我が乗つたりける鞍の前輪に押し付けてちつとも働かさず頭掻き切つて捨ててける
- `手塚太郎郎等が討たるるを見て弓手に廻り合ひ鎧の草摺引き上げて二刀刺し弱る処に組んで落す
- `斎藤別当心は猛う進めども軍にはし疲れぬ手は負うつその上老武者ではあり手塚が下にぞなりにける
- `手塚太郎馳せ来たる郎等に首取らせ木曾殿の御前に参つて
- `光盛こそ奇異の曲者組んで討つて参つて候へ
- `大将かと見候へば続く勢も候はず
- `侍かと見候へば錦の直垂を着て候ひつるが
- `名乗れ名乗れ
- `と責め候ひつれどもつひに名乗り候はず
- `声は坂東声にて候ひつる
- `と申しければ木曾殿
- `あつぱれこれは斎藤別当にてあるごさんなれ
- `それならば義仲が上野へ越えたりし時幼目に見しかば白髪の霞苧なつしぞ
- `今は定めて白髪にこそなりぬらんに鬢鬚の黒いこそ怪しけれ
- `樋口次郎年比馴れ遊んで見知りたるらんぞ
- `樋口呼べ
- `とて召されけり
- `樋口次郎ただ一目見て
- `あな無慙長井斎藤別当にて候ひけり
- `とて涙をはらはらと流す
- `木曾殿
- `それならば今は七十にも余り白髪にもならんずるに鬢鬚の黒いはいかに
- `と宣へば樋口次郎涙を押さへて
- `さ候へばこそそのやうを申し上げんと仕り候ふがあまりにあまりに哀れに覚えて不覚の涙のまづこぼれ候ひけるぞや
- `されば弓矢取る身は予てより思ひ出の詞をば聊かの所にても遣ひ置くべき事にて候ふなり
- `実盛常は兼光に逢うて物語りにし候ひしは
- `六十に余つて軍の陣へ赴かば鬢鬚を黒う染めて若やがうと思ふなり
- `その故は若殿原に争ひて先を駆けんも大人げなし
- `また老武者とて人の侮らんも口惜しかるべし
- `と申候ひしか
- `まことに染めて候ひけるぞや
- `洗はせて御覧候へ
- `と申しければ木曾殿
- `さもあるらん
- `とて洗はせて見給へば白髪にこそなりにけれ
- `斎藤別当錦の直垂を着たりける事は最後の御暇申すに大臣殿の御前に参つて申しけるは
- `実盛が身一つの事では候はねども先年坂東へ罷り向かつて候ひし時水鳥の羽音に驚いて矢一つだに射ずして駿河国の蒲原より逃げ上つて候ひし事老いの後の恥辱ただこの事候ふ
- `今度北国へ向かつては討死仕り候ふべし
- `それにつきて候ひては実盛元は越前国の者にて候ひしが近年御領について武蔵の長井に居住せしめ候ひき
- `事の譬への候ふぞかし
- `故郷へは錦を着せて直ぐ帰る
- `と申せばあはれ錦の直垂を御免候ひかし
- `と申しければ大臣殿
- `優しうも申したるものかな
- `とて錦の直垂を御免ありけるとぞ聞えし
- `昔の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し今の斎藤別当はその名を北国の巷に揚ぐとかや
- `朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ
- `去んぬる四月十七日十万余騎にて都を出だし事柄は何面を向かふべしとも見えざりしに今五月下旬に都へ帰り上るにはその勢僅かに二万余騎
- `流れを尽くして漁る時は多くの魚を得るといへども明年に魚なし
- `林を焼いて狩る時は多くの獣を得るといへども明年に獣なし
- `後を存じて少々は残さるべかりけるものを
- `と申す人々もありけるとかや