九一〇三玄昉
原文
- `上総守忠清飛騨守景家は去々年入道相国薨ぜられし時二人共に出家してありけるが今度北国にて子共皆討たれぬと聞いてその思ひのつもりにやつひに嘆き死にぞ死ににける
- `凡そ京中には家々に門戸を閉ぢて鐘打ち鳴らし声々に念仏申し喚き叫ぶ事夥し
- `また遠国近国もかくの如し
- `六月一日祭主神祇権大輔大中臣親俊を殿上の下口へ召されて今度兵革鎮まらば伊勢大神宮へ行幸あるべき由仰せ下さる
- `大神宮は昔高天原より天下らせ給ひて垂仁天皇の御宇二十五年三月大和国笠縫の里より伊勢国渡会郡五十鈴川上下津石根に大宮柱を広敷き立てて崇め初め奉りしより以来日本六十余州三千七百五十余社の大小の神祗冥道の中には無双なり
- `されども代々の帝つひに臨幸は無かりしに奈良の帝の御時左大臣不比等の孫参議式部卿宇合の子右近衛少将兼太宰少弐藤原広嗣といふ人ありけり
- `天平十五年十月肥前国松浦郡にして数万の軍兵率して国家を既に危ぶめんとす
- `その時大野東人を大将軍として広嗣追討せられし時帝御祈の為に伊勢大神宮へ初めて行幸ありしその例とぞ聞えし
- `かの広嗣は肥前の松浦より都へ一日に下り上る馬をぞ持つたりける
- `されば追討せられし時も御方の兵共落ち失せ討たれしかば件の馬にうち乗つて海中へ馳せ入りけるとぞ聞えし
- `その亡霊荒れて恐ろしき事共多かりけり
- `同じき天平十六年六月十八日筑前国御笠郡太宰府の観世音供養せられる
- `導師には玄昉僧正とぞ聞えし
- `高座に登り鐘打ち鳴らす時俄に空掻き曇り雷夥しう鳴つて玄昉の上に落ちかかりその首を取つて雲の中へぞ入りにける
- `これは広嗣追討せられし時調伏したりし故とぞ聞えし
- `この僧正は吉備大臣入唐の時相伴つて渡り法相宗渡したりし人なり
- `唐人が玄昉といふ名を笑つて
- `玄昉とは還つて滅ぶと云ふ声あり
- `いかさまにもこの人帰朝の後事に逢ふべき人なり
- `と相したりけるとかや
- `同じき天平十九年六月十八日枯髑髏に玄昉といふ銘を書いて興福寺の庭に落し人ならば千人ばかりが声して虚空にどつと笑ふ音しけり
- `興福寺は法相宗の寺たるによつてなり
- `その弟子共これを取つて塚に築きその内に納めて
- `頭墓
- `と名付けて今にあり
- `これによつて広嗣が亡霊を崇められて肥後国松浦の
- `今の鏡宮
- `と号す
- `嵯峨皇帝の御時は平城先帝尚侍督の勧めによつて既に世を乱らんとせさせ給ひし時御門御祈の為に第三皇女祐智内親王を賀茂の斎院に立て参らせ給ふ
- `これ斎院の始めなり
- `朱雀院の御時も純友将門追討の例とて八幡にて臨時の祭を始めらる
- `今度もその例たるべしとて様々の御祈共始められけり