一三一〇七主上都落
原文
- `さるほどに同じき七月十四日肥後守貞能鎮西の謀反平らげて菊池原田松浦党に至るまで兵三千余騎を召し具して上洛す
- `鎮西は僅かに平らげども東国北国の軍はいかにも鎮まらず
- `同じき二十二日の夜半ばかり六波羅の辺夥しう騒動す
- `馬に鞍置き腹帯締め物共東西南北へ運び隠す
- `只今敵のうち入りたるやうなりけり
- `明けて後聞えしは美濃源氏に佐渡衛門尉重貞といふ者あり
- `去んぬる保元の合戦の時鎮西八郎為朝が方の軍に負けて落人となつたりしを搦めて出でたりし勧賞に元は兵衛尉たりしがその時右衛門尉に成りぬ
- `これによつて一門には仇まれて平家を諂ひけるがその夜六波羅に馳せ参り
- `木曾既に北国より五万余騎で攻め上り天台山東坂本に満ち満ちて候ふ
- `郎等に楯六郎親忠手書に大夫坊覚明六千余騎天台山に競ひ登り三千の衆徒と同心して只今都へ乱れ入る
- `由申ければ平家の人々大きに騒いで方々へ討手を差し向けらる
- `大将軍には新中納言知盛卿本三位中将重衡卿三千余騎でまづ山階に宿せらる
- `越前三位通盛能登守教経二千余騎で宇治橋を固めらる
- `左馬頭行盛薩摩守忠度一千余騎で淀路を守護せられけり
- `源氏の方には十郎蔵人行家数千騎で宇治橋を渡つて都へ入るとも聞えたり
- `陸奥新判官義康が子矢田判官代義清大江山を経て上洛すとも申し合へり
- `また摂津河内の源氏等同心して同じう都へ乱れ入る由申しければ平家の人々
- `この上は力及ばず
- `ただ一所でいかにも成り給へ
- `とて方々へ向けられたりける討手共皆都へ呼び返されけり
- `帝都名利地鶏鳴いて安き事なし
- `治まれる世だにもかくの如し
- `況や乱れたる世に於いてをや
- `吉野山の奥の奥へも入りなばやとは思し召されけれども諸国七道悉く背きぬ
- `何処の浦か穏しかるべき
- `三界無安猶如火宅
- `とて如来の金言一乗の妙文なればなじかは少しも違ふべき
- `同じき七月二十四日の小夜更け方に前内大臣宗盛公建礼門院の渡らせ給ふ六波羅池殿へ参つて申されけるは
- `この世の中の有様さりともと存じ候ひしか今はかうにこそ候ふめれ
- `人々はただ都の内にていかにも成らんと候へどもまのあたり女院二位殿に憂き目を見せ参らせん事の口惜しく候へば院をも内をも取り奉りて西国の方へ御幸行幸をも成し参らせてばや思ひなつてこそ候へ
- `と申されければ女院
- `今はただともかうも其処の計らひにでこそあらんずらめ
- `とて御衣の御袂に余る御涙塞き敢へさせ給はねば大臣殿も直衣の袖絞るばかりにぞ見えられける
- `さるほどに法皇をば平家取り奉りて西国の方へ落ち行くべしと申す事を内々聞し召す旨もやありけんその夜の夜半ばかりに按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時ばかりを御供にて密かに御所を出ださせ給ひて御行方知らずぞ御幸成る
- `人これを知らざりけり
- `平家の侍に橘内左衛門尉季康といふ者あり
- `賢々しき男にて院にも召し使はれけるがその夜しも御宿直に参りて遥かに遠う候ひけるが常の御所の御方世に物騒がしう女房達忍び音に泣きなどし給へり
- `何事なるらんと聞きければ
- `俄に法皇の見えさせましまさぬは何方への御幸やらん
- `と申す声に聞くほどに
- `あなあさまし
- `とて急ぎ六波羅へ馳せ参りこの由申したりければ大臣殿
- `いで僻事でぞあるらん
- `とは宣ひながら急ぎ参つて見参らさせ給ふにげに渡らせましまさず
- `御前に候はせ給ふ女房達二位殿丹後殿以下一人も働き給はず
- `いかにや
- `と問ひ参らさせ給へども
- `我こそ御行方知り参らせたり
- `と申さるる女房達一人もおはせず皆あきれたる様にてぞましましける
- `さるほどに法皇都の内にも渡らせ給はずと申すほどこそありけれ京中の騒動斜めならず
- `況や平家の人々の周章て騒がれける有様は家々に敵のうち入りたりとも限りあればこれには過ぎじとぞ見えし
- `平家日比は院をも内をも取り奉つて西国の方へ御幸行幸をも成し参らせんと支度せられたりしかどもかくうち捨てさせ給ひぬれば頼む木の本に雨の堪らぬ心地ぞせられける
- `せめては行幸ばかりをも成し参らせよや
- `とて卯の刻に行幸の御輿を寄せたりければ主上は今年六歳未だ稚うましましければ何心なくぞ召されける
- `建礼門院御同輿には参らせ給ふ
- `神璽宝剣内侍所渡し奉る
- `印鑰時札玄象鈴鹿などをも取り具せよ
- `と平大納言時忠卿の下知せられたりけれどもあまりに周章て騒いで取り落す物ぞ多かりける
- `昼の御座の御剣などをも取り忘れさせ給ひけり
- `やがてこの時忠卿内蔵頭信基讃岐中将時実これ三人ばかりぞ衣冠にて参られける
- `その外近衛司御綱佐甲冑鎧ひ弓箭を帯して供奉せらる
- `七条を西へ朱雀を南へ行幸成る
- `明くれば七月二十五日なり
- `漢天既に啓けて雲東嶺に棚引き明け方の月白く冴えて鶏鳴また忙し
- `夢にだにかかる事は見ず
- `一年都遷とて俄に慌ただしかりしはかかるべかりける先表とも今こそ思ひ知られけれ
- `摂政殿も行幸に供奉して御出ありけるが七条大宮にて鬢結うたる童子の御車の前をつつと走り通るを御覧ずればかの童子左の袂に
- `春の日
- `といふ文字ぞ顕れたる
- `春の日
- `と書いては
- `かすが
- `と読めば法相擁護の春日大明神大織冠の御末を守り給ふにこそと頼もしう思し召す処に件の童子の声と思しくて
- `いかにせん藤のすゑ葉の枯行をただ春の日にまかせてやみん
- `伴に候進藤左衛門尉高直を召して
- `この世の中の有様を見るに行幸は成れども御幸も成らず行末頼もしからず思し召すはいかに
- `と仰せければ御牛飼に目をきつと見合はせたり
- `やがて心得て御車を遣り返し大宮を上りに飛ぶが如くに仕り北山の辺知足院へぞ入らせ給ひける