一五一〇九聖主臨幸
原文
- `或いは聖主臨幸の地なり
- `鳳闕空しく礎を残し鸞輿徒跡を留む
- `或いは后妃遊宴の砌なり
- `椒房の嵐声悲しみ掖庭の露色愁ふ
- `粧鏡翠帳の基戈林釣渚の館槐棘の座燕鸞の栖多日の経営を空しうして片時の灰燼と成り果てぬ
- `況や郎従の蓬篳に於いてをや
- `況や雑人の屋舎に於いてをや
- `余炎の及ぶ所在々所々数十町なり
- `強呉忽ちに滅びて姑蘇台の露荊棘に移り暴秦既に衰へて咸陽宮の煙脾睨を隠しけんもかくやと覚えて哀れなり
- `日比は函谷二崤の峻しきを固うせしかども北狄の為にこれを破られ今は洪河涇渭の深きを頼みしかども東夷の為にこれを取られたり
- `豈図りきや忽ちに礼儀の郷を攻め出だされて泣く泣く無智の境に身を寄せんと
- `昨日は雲の上にて雨を降す神龍たりき
- `今日は肆の辺に水を失ふ枯魚の如し
- `禍福道を同じうし盛衰掌を反す
- `今日目前にあり誰かこれを悲まざらん
- `保元の昔は春の花と栄えしかども寿永の今は秋の紅葉と落ち果てぬ
- `畠山庄司重能小山田別当有重宇都宮左衛門尉朝綱これらは去んぬる治承より寿永まで召し籠められたりしがその時既に斬らるべかりしを新中納言知盛卿の申されけるは
- `これら百人千人が首を斬らせ給ひて候ふとも御運尽きさせ給ひなば御世を保たせ給はん事有難し
- `故郷に候ふ妻子所従等いかばかり嘆き悲しみ候ふらん
- `ただ理を枉げて下させ給へ
- `もし運命啓けて都へ帰り上らせ給ふことも候はば有難き御情でこそ候はんずれ
- `と申されければ大臣殿
- `さらば疾う下れ
- `とこそ宣ひけれ
- `これら首を地につけ涙を流いて
- `今までかひなき命を助けられ参らせて候へば野の末山の奥までも行幸の御供仕りいかにも成り候はん
- `と申しければ大臣殿
- `汝等が魂は皆東国にこそあるらめ
- `蛻ばかり西国へ召し具すべきやうなし
- `ただ疾う下れ
- `とこそ宣ひけれ
- `これらも二十余年の主なりければ別れの涙押さへ難し