一六一一〇忠度都落
原文
- `薩摩守忠度は何処よりか帰られたりけん侍五騎童一人我が身共に直甲七騎取つて返し五条三位俊成卿の許におはして見給へば門戸を閉ぢて開かず
- `忠度
- `と名乗り給へば
- `落人帰り来たれり
- `とてそのうち騒ぎ合へり
- `薩摩守高らかに申されけるは
- `別の子細は候ふまじ三位殿に申すべき事あつて忠度が帰り参つて候ふ
- `門を開けられずともこの際まで立ち寄り給へ
- `申すべき事の候ふ
- `と申されたりければ俊成卿
- `さる事あり
- `その人ならば苦しかるまじ
- `開けて入れ申せ
- `とて門を開けて対面ありけり
- `事の体何となう物哀れなり
- `薩摩守申されけるは
- `先年申し承つて後は努々疎略を存ぜずとは申しながらこの二三箇年は京都の騒ぎ国々の乱れ併しながら当家の身の上に罷り成つて候へばおろかならぬ事にのみ思ひ参らせ候へども常に参り寄る事も候はず
- `君既に都を出ださせ給ひぬ
- `一門の運命も今日はや尽き果て候ふ
- `それにつき候ひては撰集の御沙汰あるべき由承つて候ひしかば生涯の面目に一首なりとも御恩を蒙らうと存じ候ひつるにやがて世の乱れ出で来てその沙汰なく候ふ条ただ一身の嘆きと存ずる候ふ
- `もしこの後世鎮まつて勅撰集の御沙汰候はばこれに候ふ巻物の中にさりぬべきもの候はば一首なりとも御恩蒙つて草の陰までも嬉しと存じ候はば遠き御守りにてこそ候はんずらめ
- `とて日比詠み置かれたる歌共の中に秀歌と思しきを百余首書き集められたりける巻物を今はとてうち立たれける時これを取つて持たりけるを鎧の引き合はせより取り出でて俊成卿に奉らる
- `三位これを開いて見て
- `かやうに忘れ形見を給はり候ふ上は努々疎略を存ずまじう候ふ
- `さても只今の御渡りこそ情も深う哀れも殊に優れて感涙押さへ難うこそ候へ
- `今は屍を山野に曝さば曝せ憂き名を西海の波に流さば流せ今は憂き世に思ひ置く事なし
- `さらば暇申して
- `とて馬にうち乗り甲の緒を締め西を指してぞ歩ませ給ふ
- `三位後ろを遥かに見送つて立たれたれば忠度の声と思しくて
- ``前途程遠
- ``馳㆓思於雁山夕雲㆒
- `と高らかに口遊み給へば俊成卿いとど哀れに覚えて涙を押さへて入り給ひぬ
- `その後世鎮まりて千載集を撰ぜられけるに忠度のありし有様云ひ置きし言の葉今更思出でて哀れなりければ件の巻物の中にさりぬべき歌幾らもありけれどもその身勅勘の人なれば名字をば顕されず
- `故郷の花
- `といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ
- `詠み人知らず
- `と入れられたる
- `さざ浪や志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
- `その身朝敵となりぬる上は子細に及ばずといひながら恨めしかりし事共なり