一七一一一経正都落
原文
- `修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正幼少の時より仁和寺の御室御所に童形にて候はれしかばかかる怱劇の中にも君の御名残きつと思ひ出で参らせ侍五六騎召し具して仁和寺殿へ馳せ参り急ぎ馬より飛んで下り門を叩かせ申し入れられけるは
- `君既に帝都を出ださせ給ひ候ひぬ
- `一門運命今日既に尽き果て候ひぬ
- `憂き世に思ひ置く事とてはただ君の御名残ばかりなり
- `八歳の年この御所へ参り始め候ひて十三で元服仕り候ひしまでは聊か相労はる事の候はんより外は白地にも御前を立ち去る事も候はず今日より後既に西海千里の波路に赴き候へばまたいづれの日いづれの時必ず立ち帰るべしとも覚えぬこそ口惜しう候へ
- `今一度御前へ参つて君をも見参らせたう存じ候へども甲冑を鎧ひ弓箭を帯してあらぬ様なる粧に罷り成りて候へば憚り存じ候ふ
- `とぞ申されける
- `御室哀れに思し召して
- `ただその姿を改めずして参れ
- `とこそ仰せけれ
- `経正その日は紫地の錦の直垂に萌黄匂の鎧着て長覆輪の太刀を帯き切斑の矢負ひ滋籐の弓脇に挟み甲をば脱いで高紐に懸け御前の御坪に畏る
- `御室やがて御出あつて御簾高く上げさせ
- `これへこれへ
- `と召されければ経正大床へこそ参られけれ
- `供に候ふ藤兵衛尉有教を召す
- `赤地の錦の袋に入れたりける御琵琶を持つて参りたり
- `経正これを取次ぎ御前に差し置き申されければ
- `先年下し預つて候ひし青山持たせて参つて候ふ
- `名残は尽きず存じ候へどもさしもの我が朝の重宝を田舎の塵になさん事の口惜う候へば参らせ置き候ふ
- `もし不思議に運命開けて都へ立ち帰る事も候はばその時こそ重ねて下し預り候はめ
- `と申されければ御室哀れに思し召し一首の御詠を遊ばいてぞ下されける
- `あかずしてわかるる君が名残をば後のかたみにつつみてぞおく
- `経正御硯下されて
- `くれ竹のかけひの水はかはれどもなほすみあかぬ宮のうちかな
- `と御返事申させ給ひて御前を罷り出でられけるに数輩の童形出世者坊官侍僧に至るまで経正の名残を惜しみ袂にすがり涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり
- `中にも幼少の時に師でおはせし大納言法印行慶と申ししは葉室大納言光頼卿の御子なり
- `あまりに名残惜しみ参らせて桂川の端までうち送りそれより暇乞うて帰られけるが法印泣く泣くかうぞ思ひ続け給ふ
- `あはれなり老木わか木も山ざくらおくれ先さきだち花はのこらじ
- `経正の返事に
- `旅衣よなよな袖をかたしきて思へば我はとほくゆきなん
- `さて巻きて持たせられたりける赤旗さつと差し上げたれば彼処此処に控へて待ち奉る侍共
- `あはや
- `とて馳せ集まりその勢百騎許鞭を挙げ駒を早めてほどなく行幸に追ひ付き奉らる