一八一一二青山
原文
- `この経正十七の年宇佐の勅使を承つて下られけるにその時青山を賜つて宇佐へ参り御殿に向かひ奉つて秘曲を弾き給ひしかばいつ聞き馴れたる事はなけれども供の宮人押し並べて緑衣の袖をぞ絞りける
- `聞き知らぬ奴までも村雨とは紛はじな
- `めでたかりし事共なり
- `かの青山と申す御琵琶は昔仁明天皇の御宇嘉祥三年の春掃部頭貞敏渡唐の時大唐の琵琶博士廉妾武に逢ひ三曲を伝へて帰朝せしにその時玄象獅子丸青山三面の琵琶を相伝して渡りけるが龍神や惜しみ給ひけん波風荒く立ちければ獅子丸をば海底に沈めぬ
- `今二面の琵琶を渡いて我が朝の帝の御宝とす
- `村上聖代応和の比ほひ三五夜中の新月の色白く冴え涼風颯々たりし夜半に帝清涼殿にして玄象をぞ遊ばされける時に影の如くなる者御前に参じて優に気高き声を以て唱歌をめでたく仕る
- `帝御琵琶を差し置かせ給ひて
- `抑も汝はいかなる者ぞ
- `何処より来たれるぞ
- `と仰せければ答へて申して曰く
- `これは昔貞敏に三曲を伝へし大唐の琵琶博士廉妾武と申す者にて候ふが三曲の中に秘曲を一曲残せる罪によつて魔道に沈淪仕る
- `今帝の御琵琶の撥音妙に聞え侍る間参入仕るところなり
- `願はくはこの曲を君に授け参らせて仏果菩提を証すべき
- `由申して御前に立てられたりける青山を取り転手を捩ぢて秘曲を君に授け奉る
- `三曲の中に
- `上玄
- `石上
- `これなり
- `その後は君も臣も恐れさせ給ひて遊ばし弾く事もせさせ給はざりしを仁和寺の御室御所へ参らさせ給ひたりしをこの経正最愛の童形たるによつて下し賜はられ預りたりけるとかや
- `甲は紫藤の甲夏山の峰の緑の木の間より有明の月の出けるを撥面に書かれたりける故にこそ
- `青山
- `とは召されけれ
- `玄象にも相劣らぬ稀代の名物なり