一九一一三一門都落
原文
- `池大納言頼盛卿も池殿に火を懸けて出でられたるが鳥羽の南門にて
- `忘れたる事あり
- `とて赤印共かなぐり捨ててその勢三百ばかりで都へ取つて返す
- `越中次郎兵衛盛嗣大臣殿の御前に馳せ参り急ぎ馬より飛んで下り弓脇挟み畏つて
- `あれ御覧候へ
- `池殿の御留まりによつて多くの侍共の留まり候ふが奇怪に覚え候ふ
- `池殿まではその恐れも候へば侍共に矢一つ射かけ候はばや
- `と申しければ大臣殿
- `今これほどの有様を見果てぬほどの不当人はさ無くともありなん
- `と宣へば力及ばで射ざりけり
- `さて小松殿の君達はいかに
- `と宣へば
- `未だ御一所も見えさせ給はず
- `と申す
- `大臣殿
- `都を出でて未だ一日だに過ぎざるにはや人々の心共の変はりゆくうたてさよ
- `とぞ宣ひける
- `新中納言知盛卿
- `行末とても頼もしからず
- `ただ都の内にていかにも成らせ給へ
- `と申しつるものを
- `とて大臣殿の御方を世にも恨めしげにぞ見給ひける
- `抑も池殿の御留まりをいかにと云ふに兵衛佐頼朝常は情をかけて
- `御方をば全くおろか思ひ参らず
- `偏に故池殿の御渡りとこそ存じ候へ
- `八幡大菩薩も御照覧候へ
- `など度々誓状を以て申されけり
- `平家追罰の討手の使の上る事には
- `相構へて池殿の侍に向かつて弓引くな
- `など度々芳心せられたりければ
- `一門の平家は運尽きて既に都を落ちぬ
- `今は兵衛佐にこそ助けられんずれ
- `とて落ち留まられたりけるとぞ聞えし
- `八条女院都をば軍に襲はれさせ給ひて仁和寺の常盤殿に忍うでましましける所へ参り籠られけり
- `この頼盛卿と申すは女院の御乳母子宰相殿と申す女房に相具せられたりけるによつてなり
- `自然の事も候はば頼盛助けさせおはしませ
- `と申されければ女院
- `今は世の世であらばこそ
- `と世にも頼もしげも無うぞ仰せける
- `凡そは兵衛佐ばかりこそ芳心を存ずといへども自余の源氏等はいかあらん
- `と思はれければ憖に一門には引き別れてかく落ち留まりぬ
- `波にも磯にもつかぬ心地ぞせられける
- `さるほどに小松殿の君達兄弟六人都合その勢千騎ばかりで淀の六田河原にて行幸に追つ付き奉らる
- `大臣殿斜めならず嬉しげにて
- `いかにや今までの遅参候ふ
- `と宣へば三位中将
- `幼き者共があまりに慕ひ候ふをとかう拵へ置かんと仕るほどに存知の外の遅参
- `と申されければ大臣殿
- `など六代殿をば召し具せられ候はぬぞ
- `心強うも留め給ふものかな
- `と宣へば三位中将
- `行末とても頼もしうも候はず
- `とて問ふに辛さの涙を流されけるこそ悲しけれ
- `落ち行く平家は誰々ぞ
- `前内大臣宗盛公平大納言時忠平中納言教盛新中納言知盛修理大夫経盛右衛門督清宗本三位中将重衡小松三位中将維盛同新三位中将資盛越前三位通盛
- `殿上人には内蔵頭信基讃岐中将時実左中将清経同じき少将有盛丹後侍従忠房皇后宮亮経正左馬頭行盛薩摩守忠度武蔵守知章能登守教経備中守師盛尾張守清定淡路守清房若狭守経俊蔵人大夫業盛経盛弟子大夫敦盛兵部少輔正明
- `僧には二位僧都専親法勝寺執行能円中納言律師仲快経誦坊阿闍梨祐円
- `侍には受領検非違使衛府諸司尉百六十人都合その勢七千余騎これはこの三箇年が間東国北国度々の軍に討ち洩らされて僅かに残るところなり
- `平大納言時忠卿山崎関戸院に玉御輿を舁き据ゑさせ男山の方伏し拝み
- `南無帰命頂礼八幡大菩薩願はくは君を始め参らせて我等を今一度故郷へ帰し入れさせ給へ
- `と祈られけるこそ悲しけれ
- `各後ろを顧み給へば霞める空の心地して煙のみ心細うぞ立ち上る
- `平中納言教盛
- `はかなしなぬしは雲井にわかるれば宿はけぶりとたち上るかな
- `修理大夫経盛
- `故郷をやけ野原かとかへりみて末もけぶりの浪ぢをぞゆく
- `まことに故郷をば一片の煙塵に隔てつつ前途万里の雲路に赴かれけん心の内推し量られて哀れなり
- `肥後守貞能は川尻に源氏待つと聞いて蹴散らさんとてその勢五百余騎で発向したりけるが僻事なればとて取つて返して上るほどに宇度野の辺にて行幸に参り合ひ急ぎ馬より飛んで下り大臣殿の御前に畏つて
- `あな心憂やこは何方へとて渡らせ給ひ候ふやらん
- `西国へ下らせ給ひたらば落人とて彼処此処にて討ち洩らされ憂き名を流させましまさん事口惜しう候ふべし
- `ただ都の内にていかにも成らせ給ふべうもや候ふらん
- `と申しければ大臣殿
- `貞能は未だ知らぬか
- `木曾既に北国より五万余騎で攻め上り比叡山東坂本に満ち満ちたんなり
- `法皇も過ぎし夜半に失せさせ給ひぬ
- `せめて行幸ばかりをも成し参らせて一まづともと思ふぞかし
- `と宣へば
- `さ候はば貞能は暇賜はつて都の内にていかにも成り候はん
- `とて召し具したる五百余騎の勢を小松殿の君達に付け参らせ手勢三十騎ばかり都へ取つて返す
- `平家の余党の都に残り留まつたるを討たんとて貞能が帰り入る由聞えしかば池大納言は
- `頼盛が身の上でぞあらんずらん
- `と大きに恐れ騒がれけり
- `貞能は西八条の焼け跡に大幕引かせ一夜宿したりけれども帰り入らせ給ふ平家の君達一人もおはせざりければさすが世の有様心細くや思ひけん源氏の馬の蹄に懸けさじとて小松殿の御墓掘らせ御骨に向かひ奉つて泣く泣く申しけるは
- `あなあさまし御一門の御果て御覧候へ
- `生ある者は必ず滅す
- `楽しみ尽きて悲しみ来たる
- `と古より書き置きたる事の候へどもまのあたりかかる憂き事候はず
- `君はかかるべかりける事を予て悟らせ給ひて仏神三宝に御祈誓ありて御世を早うせさせましましける事こそ有難う候へ
- `いかにもしてその時貞能も後世の御供仕るべう候ひしものをかひなき命長らへて今日はかかる憂き目に逢ひ候ふ
- `死期の時は必ず一仏土へ迎へさせ給へ
- `と泣く泣く遥かに掻き口説き骨をば高野へ送り辺なる土をば賀茂川へ流させ行末頼もしからずや思ひけん主と後ろ合はせに東国の方へぞ落ち行きける
- `貞能は先年宇都宮をば申し預つてその時情ありしかば今度もまた宇都宮を頼うで下つたりければその誼にや芳心しけるとぞ聞えし