四一一八太宰府落
原文
- `さるほどに平家筑紫に都を定め内裏造らるべしと公卿僉議ありしかども維義が謀反と聞いて大きに恐れ騒がれけり
- `新中納言知盛卿の異見に申されけるは
- `かの維義は小松殿の御家人なり
- `されば君達一所向かはせ給ひて拵へて御覧ぜらるべうもや候ふらん
- `と申されければ
- `この儀尤も然るべし
- `とて新三位中将資盛その勢五百余騎豊後国にうち越えやうやうに拵へ給へども維義従ひ奉らず
- `剰へ
- `君達をもこれにて取り籠め参らすべう候ひしかども大事の中の小事なしとて取り籠め参らせずば何ほどの事か候ふべき
- `ただ太宰府へ帰らせ給ひて御一所でいかにも成らせ給へ
- `とて追つ返し奉る
- `その後維義が次男野尻次郎維村を使者にて太宰府へ申しけるは
- `平家こそ重恩の君にてましまし候へば甲を脱ぎ弦を弛いて降人に参るべく候へども一院の仰せには
- `速やかに九国の内を追ひ出だし奉るべき
- `由候ふ
- `と申し送つたりければ平大納言時忠卿糸葛の袴緋緒括の直垂立烏帽子にて維村に出向かひて宣ひけるは
- `それ我が君は天孫四十九世の正統神武天皇より人王八十一代に当たらせ給ふ
- `されば天照大神正八幡宮も我が君をこそ守り参らさせ給ふらめ
- `就中当家は保元平治より以来度々の逆乱を鎮めて九州の者共をば皆内裏様へこそ召されしか
- `然るにその恩を忘れて東国北国の凶徒等頼朝義仲等に語らはれて
- `しおほせたらば国を預けん庄を賜ばん
- `と申すをまことと思ひてその鼻豊後が下知に従ふらん事こそ然るべからね
- `とぞ宣ひける
- `豊後国司刑部卿三位頼資卿は極めて鼻の大きなりければかやうには宣ひけるなれ
- `維村帰つて父にこの由告げたりければ
- `こはいかに
- `昔は昔今は今その儀ならば九国の内を追ひ出だし奉れや
- `とて勢揃ふると聞えしかば源太夫判官季定摂津判官盛澄
- `向後傍輩の為奇怪に候ふ
- `召し捕りて候はん
- `とてその勢三千余騎で筑後国高野本庄に発向して一日一夜攻め戦ふ
- `されども維義が勢雲霞の如くに重なりければ力及ばで引き退く
- `平家は緒方三郎維義が三万余騎の勢にて既に寄すと聞えしかば取る物も取り敢へず太宰府をこそ落ち給へ
- `さしも頼もしかりつる天満天神の注連の辺を心細くも立ち別れ駕輿丁もなければ葱花鳳輦はただ名をのみ聞きて主上腰輿に召されけり
- `国母を始め参らせて止事なき女房達は袴の裾を高く取り大臣殿以下の卿相雲客指貫の稜を高く挟み歩跣で水城の戸を出でて我先に我先にと箱崎の津へこそ落ち給へ
- `折節降る雨車軸の如し
- `吹く風沙を揚ぐとかや
- `落つる涙降る雨分きていづれも見えざりけり
- `住吉箱崎香椎宗像伏し拝み主上ただ旧都還幸とのみぞ祈られける
- `垂水山鶉浜などいふ峻しき嶮難を凌がせ渺々たる平沙へぞ赴かれける
- `いつ習はしの御事なれば御足より出づる血は沙を染め紅の袴は色を増し白袴は裾紅にぞなりにける
- `かの玄奘三蔵の流沙葱嶺を凌れたりけん悲しみもこれにはいかでか勝るべき
- `それは求法の為なれば自他の利益もありけん
- `これは闘戦の道なれば来世の苦しみ且つ思ふこそ悲しけれ
- `原田大夫種直は二千余騎で後れ馳せに馳せ参る
- `山賀兵藤次秀遠数千騎で平家の御迎に参りけるが種直秀遠以ての外に不和なりければ種直は
- `悪しかりなん
- `とて道より引き返す
- `芦屋の津といふ所を過ぎさせ給ふにも
- `これは都より我等福原へ通ひし時朝夕見慣れし里の名なれば
- `とていづれの里よりも懐かしく今更哀れをぞ催されける
- `新羅百済高麗契丹雲の果て海の果てまでも落ち行かばやとは思はれけれども波風向かうて叶はねば力及ばず兵藤次秀遠に具せられて山賀城にぞ籠り給ふ
- `山賀へもまた敵寄すと聞えしかば取る物も取り敢へず平家は小舟共に取り乗つて終夜豊前国柳浦へぞ渡られける
- `此処に都を定め内裏造るべしと公卿僉議ありしかども分限なければそれも叶はず
- `また長門より源氏寄すと聞えしかば取る物も取り敢へず海士小舟に召して海にぞ浮かび給ひける
- `小松殿の三男左中将清経は何事も深う思ひ入り給へる人にておはしけるがある月の夜舷に立ち出でて横笛音取り朗詠して遊ばれけるが
- `都をば源氏が為に攻め落され鎮西をば維義が為に追ひ出ださる
- `網に懸かれる魚の如し
- `何方行かば遁るべきかは
- `長らへ果つべき身にもあらず
- `静かに経読み念仏して海にぞ沈み給ひける
- `男女泣き悲しめどもかひぞなき
- `長門国は新中納言知盛卿の国なりけり
- `目代は紀伊刑部大夫通資といふ者なり
- `平家の海士小舟に召したる由承つて大船百余艘点じて進らせたりければ平家これに乗り移り四国へこそ渡られける
- `重能が沙汰として讃岐国八島の磯に形のやうなる板屋の内裏や御所をぞ造らせける
- `そのほどはあやしの民屋を皇居とするに及ばねば舟を御所とぞ定めける
- `大臣殿以下の卿相雲客は海士の蓬屋に日を送り賤が臥所に夜を重ね龍頭鷁首を海中に浮かべ波の上の行宮は静かなる時なし
- `月を浸せる潮の深き愁に沈み霜を覆へる葦の葉の脆き命を危ぶむ
- `洲崎に騒ぐ千鳥の声は暁の恨を増し磯間にかかる楫の音は夜半に心を傷ましむ
- `白鷺の遠松に群れ居るを見ては源氏の旗を揚ぐるかと疑はる
- `野雁の遼海に鳴くを聞きては兵共の終夜夜舟を漕ぐかと驚かる
- ``晴嵐侵㆑膚翠黛紅顔色漸衰蒼波眼穿外土望郷涙難押
- `翠帳紅閨に替はれるは土生の小屋の葦簾薫炉の煙に異なる海士の藻塩火焚く屋の賤しきにつけても女房達は尽きせぬ物思ひに紅の涙塞き敢へず翠の黛乱れつつその人とも見え給はず
書下し文
一
- ``晴嵐膚を侵し翠黛紅顔の色漸う衰へ蒼波眼を穿つて外土望郷の涙押さへ難し