六一二〇猫間
原文
- `泰定都へ上り院参して御坪の内に畏つて関東のやうを具に語り申したりければ法皇大きに御感ありけり
- `公卿殿上人も勇み悦び合はれたり
- `兵衛佐はかうこそゆゆしくおはしませしか
- `常時都の守護にて候はれける木曾義仲は似も似ず悪かりけり
- `色白く眉目はよい男にてありけれども起居の振舞ひの無骨さ物云うたる詞続きの頑ななる事限りなし
- `理かな二歳より三十に余るまで信濃国木曾といふ山里に住み馴れておはしければなじかはよかるべき
- `その比猫間中納言光高卿といふ人ありけり
- `木曾に宣ひ合はすべき事ありておはしたりけるを郎等共
- `猫間殿の入らせ給ひて候ふ
- `と云ひければ木曾大きに笑つて
- `猫は人に対面するか
- `これは猫間中納言殿とて申公卿にて渡らせ給ひ候ふ
- `と云ひければ
- `されば
- `とて対面す
- `木曾
- `猫間殿
- `とはえ云はで
- `猫殿が食時に稀々わいたに物よそへ
- `とぞ云ひける
- `中納言殿
- `いかでか只今さる事のおはすべき
- `と宣へども木曾何をも新しき物をば
- `無塩
- `と云ふぞと心得て
- `無塩の平茸此処にあり疾う疾う
- `と急がす
- `根井小弥太陪膳す
- `田舎合子の極めて大きに窪かりけるに飯堆くよそひ御菜三種して平茸の汁にて参らせたり
- `木曾が前にも同じ体にて据ゑたりけり
- `木曾箸取りて食す
- `中納言はあまりに合子のいぶせさに食はざりければ木曾
- `汚うは思ひ給ひそ
- `それは義仲が精進合子で候ふぞ
- `疾う疾う
- `と勧むる間中納言殿召さでもさすが悪しかりなんとや思はれけん箸取つて召す由して差し置かれたりければ木曾大きに笑つて
- `猫殿は小食におはすよ
- `聞ゆる猫下ろしし給ひたり
- `飼ひ給へ飼ひ給へ
- `とぞ責めたりける
- `中納言殿はかやうの事によろづ興醒めて宣ひ合はす事共一詞も云ひ出ださず急ぎ帰られけり
- `その後木曾院参しけるが官加階したる者の直垂にて出仕せん事あるべうもなしとて俄に布衣取り装束冠際は袖のかかり指貫の輪に至るまで頑ななる事限りなし
- `鎧取つて着矢掻き負ひ弓押し張り馬にうち乗つたるには似も似ず悪かりけり
- `されども車に屈み乗りぬ
- `牛飼は八島大臣殿の牛飼なり
- `牛車もそなりけり
- `逸物なる牛の据ゑ飼うたるを門出づるとて一楚当てたらうになじかはよかるべき牛は飛んで出づれば木曾は車の内に仰のきに倒れぬ
- `蝶の羽を広げたるやうに左右の袖を広げ手をあがいて起きん起きんとしけれどもなじかは起きらるべき
- `木曾
- `牛飼
- `とはえ云はで
- `やれ小牛健児よやれ小牛健児よ
- `と云ひければ
- `車遣れ
- `と云ふぞ
- `と心得て五六町こそあがかせけれ
- `今井四郎兼平鐙を合はせて追ひ付き
- `何とて御車をばかやうには仕るぞ
- `と云ひければ
- `あまりに御牛の鼻強う候ふて
- `とぞ述べたりける
- `牛飼木曾に仲直りせんとや思ひけん
- `それに候ふ手形と申す者に取り付かせ給へ
- `と云ひければ木曾手形にむずと掴み付いて
- `あつぱれ支度や牛健児が計らひか殿のやうか
- `とぞ問ひたりける
- `さて院御所へ参り門前にて車かけ外させ後ろより下りんとしければ京の者の雑色に召し使はれけるが
- `車には召され候ふ時こそ後ろよりは召され候へ
- `下りさせ給ふ時は前よりこそ下りさせ給ふべけれ
- `と云ひければ木曾
- `いかでか車ならんからに素通りをばすべき
- `とてつひに後ろよりぞ下てける
- `その外可笑しき事共多かりけれども恐れてこれを申さず