八一二二瀬尾最期
原文
- `木曾左馬頭この由を聞きて
- `安からぬ事なり
- `とてその勢一万余騎で西海道へ馳せ下る
- `ここに平家の御方に候ひける備中国の住人瀬尾太郎兼康は聞ゆる兵にてありけれども去んぬる五月北国の戦ひの時運や尽きにけん加賀国の住人倉光次郎成澄が手に懸かつて生捕にこそせられけれ
- `その時既に斬らるべかりしを木曾殿
- `あつたら男を左右なう斬るべきにあらず
- `とて弟の成氏に預けられてぞ候ひける
- `人あひ心様まことに優なりければ倉光も懇にもてなしけり
- `蘇子卿が胡国に囚はれ李少卿が漢朝へ帰らざりしが如し
- `遠く異国に付ける事も昔の人の悲しめりしところなりと云へり
- ``韋鞴毳幕以禦㆓風雨㆒羶肉酪漿以充㆓飢渇㆒
- `夜は寝る事なく昼は終日に木を伐り草を刈らずといふばかりに随ひつついかにもして敵を窺ひ討つて今一度旧主を見ばやと思ひ立ちける兼康が心の内こそ恐ろしけれ
- `ある時瀬尾太郎倉光三郎に云ひけるは
- `去んぬる五月よりかひなき命を助けられ参らせて候へば誰を誰とか思ひ参らせ候ふべき
- `今度合戦候はば命をばまづ木曾殿に奉らん
- `それにつき候ひては先年兼康が知行し候ひし備中の瀬尾といふ所は馬の草飼ひよき所にて候ふ
- `御辺申し給はらせ給へ
- `案内者せん
- `と云ひければ倉光三郎この由を申す
- `木曾殿
- `さては不便のことをも申すごさんなれ
- `まことには馬の草などをも構へさせよ
- `とぞ宣へば倉光三郎畏り承つて手勢三十騎ばかり瀬尾太郎を相具して備中国へぞ馳せ下る
- `瀬尾の嫡子小太郎宗康は平家の御方に候ひけるが父が木曾殿より暇賜はつて下ると聞いて年比の郎等共催し集めてその勢五十騎ばかりで父が迎ひに上りけるが播磨の国府で行き逢うたり
- `それよりうち連れ下るほどに備前国三石宿に留まつたりける
- `夜瀬尾が相知つたる者共酒を持たせて来たり集まり終夜酒盛しけるが倉光が勢三十騎ばかりを強ひ伏せて起しも立てず一々に皆刺し殺してける
- `備前国は十郎蔵人の国なりけり
- `その代官の国府にありけるをもやがて押し寄せて討つてけり
- `瀬尾太郎兼康こそ木曾殿より暇賜はつてこれまで罷り下つたれ
- `平家に御志忍び参らせん人々は今度木曾殿の下り給ふに矢一つ射かけ奉れや
- `と披露しければ備前備中備後三箇国の兵共然るべき馬物具所従等をば平家の御方へ参らせて休み居たりける老者共瀬尾に催されて或いは柿の直垂に詰紐し或いは布の小袖に東折し鎖腹巻綴り着山虚蒲竹箙に矢共少々差し掻き負ひ掻き負ひ我も我もと瀬尾の許へ馳せ集まる
- `都合その勢二千余人備前国福隆寺縄手篠の迫を城郭に構へて口二丈深さ二丈に堀を掘り掻楯かき高矢蔵し逆茂木引いて待ちかけたり
- `十郎蔵人の代官瀬尾に討たれてその下人の逃げて京へ上るが播磨と備前の境船坂といふ所にて木曾殿に行き逢ひ奉りこの由かくと申しければ木曾殿
- `憎からん瀬尾めを斬つて捨つべかりつるものを
- `手延びにして謀られぬる事こそ安からね
- `と後悔せられければ今井四郎申しけるは
- `彼奴が面魂只者とは見候はず
- `千度
- `斬らう
- `と申し候ひしは此処ぞかし
- `さりながら何ほどの事か候ふべき
- `兼平まづ罷り向かつて見候はん
- `とてその勢三千余騎で備前国へ馳せ下る
- `福隆寺縄手は道の端張り弓杖一丈ばかりにて遠さは西国道の一里なり
- `左右は深田にて馬の脚も及ばねば三千余騎が心は先に進めども力及ばず馬次第にぞ歩ませける
- `今井四郎押し寄せて見ければ瀬尾太郎は急ぎ高矢蔵に走り上がり大音声を揚げて
- `去んぬる五月よりかひなき命を助けられ参らせて候ふ
- `各の芳志にはこれをこそ用意仕つて候へ
- `とて差し詰め引き詰め散々に射る
- `今井四郎宮崎三郎海野望月諏訪藤沢などいふ一人当千の兵共これを事ともせず甲の錣を傾け射殺さるる人馬をば取り入れ引き入れ堀を埋め或いは左右の深田にうち入れて馬の草脇鞅尽くし太腹に立つ所をも事ともせず簇かいて押し寄せ或いは谷深けをも嫌はず懸け入れ懸け入れ喚き叫んで攻め入りければ瀬尾が方の兵共助かる者は少なく討たるる者ぞ多かりける
- `夜に入りて瀬尾が頼みきつたる篠の迫の城郭を破られて叶はじとや思ひけん引き退く
- `備中国板倉川の端に掻楯かいて待ちかけたり
- `今井四郎やがて続いて攻めければ瀬尾が方の兵共山虚蒲竹箙に矢種のあるほどこそ防ぎけれ矢種皆尽きければ力及ばず我先にとぞ落ち行きける
- `瀬尾太郎ただ主従三騎にうち成され板倉川の端に着きて緑山の方へ落ちぞ行く
- `去んぬる五月北国にて瀬尾生捕にしたりける倉光次郎成澄は弟の成氏を討たせて安からずや思ひけん
- `今度もまた瀬尾めに於いては生捕にせん
- `とてただ一騎群に抜けて追つて行く
- `あはひ一町ばかりに追つ付き
- `あれはいかに瀬尾とこそ見れ
- `正なうも敵に後を見する者かな
- `返せや返せ
- `と詞をかけければ瀬尾太郎は板倉川を西へ渡すが川中に控へて待ちかけたり
- `倉光次郎鞭鐙を合はせて馳せ来たり押し並べてむずと組んでどうと落つ
- `互ひに劣らぬ大力ではあり上になり下になり転び合ひけるが河岸に淵のありけるに転び入りて倉光は無水練瀬尾は究竟の水練にてありければ水の底で倉光が腰の刀を抜き鎧の草摺引き上げて柄も拳も通れ通れと三刀刺いて首を取る
- `瀬尾太郎我が馬をば乗り損じたりければ倉光が馬にうち乗つて落ち行く
- `瀬尾の小太郎宗康は年は二十に成りけれどもあまりに太つて一町ともえ走らず
- `これを見捨てて瀬尾は十余町ぞ逃げ延びたりける
- `瀬尾太郎郎等に云ひけるは
- `日比は千万の敵に逢うて軍するに四方晴れて覚ゆるが今日は小太郎を捨てて行けばにや一向先が暗うて見えぬなり
- `今度の軍に命生きて二度平家の御方へ参りたりとも
- `兼康は六十に余つて幾ほど生かうと思うてただ一人ある子を捨ててこれまで遁れ参りたるらん
- `など同隷共に云はれん事こそ口惜しけれ
- `と云ひければ郎等
- `さ候へばこそ
- `ただ御一所でいかにも成らせ給へ
- `と申しつるは此処候ふぞかし
- `返させ給へ
- `とてまた取つて返す
- `案の如くに小太郎宗康は足かんばかりに腫れて伏せ居たる所へ瀬尾太郎急ぎ馬より飛んで下り小太郎が手を取つて
- `汝と一所でいかにも成らんと思ふ為にこれまで帰りたるはいかに
- `と云ひければ小太郎涙をはらはらと流いて
- `たとひこの身こそ無器量に候へば自害を仕り候ふとも我が故御命をさへ失ひ参らせん事五逆罪にや候はんずらん
- `ただ疾う疾う延びさせ給へ
- `と云ひけれども
- `思ひ切つてん上は
- `とて休み居たりける処に今井四郎兼平五十騎ばかり鞭鐙を合はせて追つ懸けたり
- `瀬尾太郎射残したる八筋の矢を差し詰め引き詰め散々に射る
- `死生は知らず矢庭に敵八騎射落しその後太刀を抜いてまづ小太郎が首ふつと討ち落し敵の中へ駆け入り縦様横様蜘蛛手十文字散々に戦ひ痛手数多負ひつひに討死してけり
- `郎等も主にちつとも劣らず戦ひけるが痛手負うて生捕にこそせられけれ
- `中一日逗留あつてやがて死ににけり
- `これら主従三人が首をば備中国鷺森にぞ懸けたりける
- `木曾殿
- `あはれ剛の者や
- `これらが命助けて見で
- `とぞ宣ひける
書下し文
一
- ``韋鞴毳幕以て風雨を防ぎ羶肉酪漿以て飢渇に充つ