二一二七宇治川先陣
原文
- `佐々木四郎の賜はられたりける御馬は黒栗毛なる馬の極めて太う逞しきが馬をも人をも辺を払つて食ひければ
- `生食
- `とは付けられたり
- `八寸の馬とぞ聞えし
- `梶原が賜はつたりける御馬も極めて太う逞しきがまことに黒かりければ
- `磨墨
- `とは付けられたり
- `いづれも劣らぬ名馬なり
- `さるほどに尾張国より大手搦手二手に分かつて攻め上る
- `大手の大将軍には蒲御曹司範頼相伴ふ人々武田太郎加賀見次郎一条次郎板垣三郎稲毛三郎楾谷四郎熊谷次郎猪俣小平六を先として都合その勢三万五千余騎近江国野路篠原にぞ陣を取る
- `搦手の大将軍には九郎御曹司義経同じく伴ふ人々安田三郎大内太郎畠山庄司次郎梶原源太佐々木四郎糟屋藤太渋谷右馬允平山武者所を先として都合その勢三万五千余騎伊賀国を経て宇治橋の詰にぞ押し寄せたるが宇治も勢田も橋を引き水の底には乱杭打つて大綱張り逆茂木繋いで流し懸けたり
- `比は睦月二十日余りの事なれば比良の高嶺志賀の山昔長柄の雪も消え谷々の氷解けて水は折節増りたり
- `白波夥しう漲り落ち瀬枕大きに滝鳴つて逆巻く水も速かりけり
- `夜は既に明けゆけど川霧深く立ち籠めて馬の毛も鎧の毛も定かならず
- `大将軍九郎御曹司川の端に進み出で水の面を見渡いて人々の心を見んとや思はれけん
- `淀一口へや向かふべき水の落足をや待つべき
- `いかがせん
- `と宣ふ処にここに武蔵国の住人畠山庄司次郎重忠生年二十一に成りけるが進み出でて申しけるは
- `この川の御沙汰は鎌倉にてもよくよく候ひしぞかし
- `日比知ろし召されぬ海川の俄に出で来ても候はばこそ
- `近江の湖の末なれば待つとも待つとも水干まじ
- `橋をばまた誰が渡いて参らすべき
- `一年治承の合戦に足利又太郎忠綱が渡しけるは鬼神か
- `重忠まづ瀬踏み仕らん
- `とて丹党を宗として五百余騎ひしひしと轡を並ぶる処にここに平等院の艮橘の小島崎より武者二騎引き懸け引き懸け出で来たり
- `一騎は梶原源太景季一騎は佐々木四郎高綱なり
- `人目には何とも見えざりけれども内々先に心をかけたりければ梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる
- `佐々木
- `いかに梶原殿この川は西国一の大河ぞや
- `腹帯の延びて見えさうぞ
- `締め給へ
- `と云ひければ梶原さもあるらんとや思ひけん手綱を馬の揺髪に捨て左右の鎧を踏み透かし腹帯を解いてぞ締めたりける
- `佐々木その間に其処をつと馳せ抜いて川へさつとぞうち入れたる
- `梶原謀られぬとや思ひけんやがて続いてうち入つたり
- `梶原
- `いかに佐々木殿高名せうとて不覚し給ふな
- `水の底には大綱あるらん心得給へ
- `と云ひければ佐々木太刀を抜いて馬の脚にかかりける大綱共をふつふつと打ち切り打ち切り宇治川速しといへども生食といふ世一の馬には乗つたりけり一文字にさつと渡いて向かひの岸にぞ打ち上げたる
- `梶原が乗つたりける磨墨は川中より篦撓形に押し流され遥かの下より打ち上げたり
- `その後佐々木鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて
- `宇多天皇より九代の後胤佐々木三郎秀義が四男佐々木四郎高綱宇治川の先陣ぞや
- `木曾殿の御方に我と思はん人々は寄り合へや
- `見参せん
- `とて喚いて駆く
- `畠山五百余騎でやがて渡す
- `向かひの岸より山田次郎が放つ矢に畠山馬の額を箆深に射させ弱れば川中より弓杖を突いて下り立つたり
- `岩波甲の手先へさつと押しかけけれども畠山これを事ともせず水の底を潜つて向かひの岸にぞ着きにける
- `上がらんとする処に後より物こそむずと控へたれ
- `誰そ
- `と問へば
- `重親
- `と答ふ
- `いかに大串か
- `さん候ふ
- `大串次郎は畠山が為には烏帽子子にてぞ候ひける
- `あまりに水が速うて馬をば押し流され候ひぬ
- `力及ばでこれまで着き参つて候ふ
- `と言ひければ畠山
- `いつも和殿原がやうなる者は重忠にこそ助けられんずれ
- `と云ふまま大串を掴んで岸の上へぞ投げ上げたる
- `投げ上げられて立ち直り太刀を抜いて額に当て大音声を揚げて
- `武蔵国の住人大串次郎重親宇治川の徒歩立ちの先陣ぞや
- `とぞ名乗つたる
- `敵も御方もこれを聞いて一度にどつとぞ笑ひける
- `畠山乗替に乗つて喚いて駆く
- `ここに魚綾の直垂に緋威の鎧着て連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりける武者一騎真先に進んだるを畠山
- `此処に駆くるは何者ぞ
- `名乗れや
- `と云ひければ
- `木曾殿の家子に長瀬判官代重綱
- `と名乗る
- `畠山今日の軍神祝はんとて押し並べてむずと組んで引き落し我が乗つたりける鞍の前輪に押し付けちつとも働かさず首捩ぢ切つて本田次郎が鞍の取付にこそ付けさせけれ
- `これを始めて宇治橋固めたる兵共暫し支へて防ぎ戦ふといへども東国の大勢皆渡いて攻めければ散々に駆けなされ木幡山を指してぞ落ち行きける
- `勢田をば稲毛三郎重成が計らひにて田上の供御瀬をこそ渡しけれ