一二九木曾最期

原文

  1. `木曾殿は信濃より巴山吹とて二人の美女を具せられたり
  2. `山吹は労りありて都に留まりぬ
  3. `中にも巴は色白う髪長く容顔まことに美麗なり
  4. `究竟の荒馬乗りの悪所落とし弓矢打物取つてはいかなる鬼にも神にも逢はうといふ一人当千の兵なり
  5. `されば軍といふ時は実よき鎧着せ強弓大太刀持たせて一方の大将には向けられけるに度々の高名肩を並ぶる者なし
  6. `されば今度も多くの者共落ち失せ討たれける中に七騎が中までも巴は討たれざりけり
  1. `木曾は長坂を経て丹波路へとも聞ゆ
  2. `龍花越にかかつて北国へとも聞えけり
  3. `かかりしかども今井が行末の覚束なさに取つて返して勢田の方へぞ落ち行き給ふ
  1. `今井四郎兼平も八百余騎で勢田を固めたりけるが五十騎ばかりに討ち成され旗をば巻かせて持たせつつ主の覚束なさに都の方へ上るつもりに大津の打出浜にてぞ木曾殿に行き合ひ奉る
  2. `中一町ばかりより違ひにそれと見知つて主従駒を早めて寄り合ひたり
  1. `木曾殿今井が手を取つて宣ひけるは
  2. `義仲六条河原にていかにも成るべかりしかども其処で討たれんより汝と一所でいかにも成らんと思ふ為にこそ多くの敵に後ろを見せてこれまで遁れたるはいかに
  3. `と宣へば今井四郎
  4. `御諚まことに忝う候ふ
  5. `兼平も勢田にて討死仕るべう候ひしかども御行方の覚束なさにこれまで遁れ参つて候ふ
  6. `と申しければ木曾殿
  7. `さては契り未だ朽ちせざりけり
  8. `義仲が勢山林に馳せ散つてこの辺にも控へたるらんぞ
  9. `汝旗揚げさせよ
  10. `と宣へば巻いて持たせたる今井が旗を差し上げたり
  11. `これを見付けて京より落ち来る勢ともなくまた勢田より落つる者ともなくほどなく三百余騎ばかりぞ馳せ集まる
  1. `木曾殿斜めならずに悦びて
  2. `この勢にては最後の軍一軍などかせざるべき
  3. `あれにしぐろうて見ゆるは誰が手やらん
  4. `甲斐の一条次郎殿の御手とこそ承つて候へ
  5. `勢いかほどあるらん
  6. `六千余騎と聞え候ふ
  7. `さては互いによい敵
  8. `同じう死ぬるとも大勢の中へ駆け入りよい敵に逢うてこそ討死をもせめ
  9. `とて真先にぞ進み給ふ
  10. `木曾その日の装束には赤地錦の直垂に唐綾威の鎧着て厳物作りの大太刀を帯き鍬形打つたる甲の緒を締め二十四差いたる石打の矢のその日の軍に射て少々残りたるを頭高に負ひ成し滋籐の弓の真中取つて聞ゆる木曾の鬼葦毛といふ馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて
  1. `日比は聞けんものを木曾冠者今は見るらん左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲ぞや
  2. `甲斐一条次郎とこそ聞け
  3. `義仲討つて兵衛佐に見せよや
  4. `とて喚いて駆く
  1. `一条次郎これを聞いて
  2. `只今名乗るは大将軍ぞや
  3. `余すな者共漏らすな若党討てや
  4. `とて大勢の中に取り籠め
  5. `我討ち取らん
  6. `とぞ進みける
  1. `木曾三百余騎六千余騎が中へ駆け入り縦様横様蜘蛛手十文字に駆け破つて後ろへつと出でたれば五十騎ばかりになりにけり
  2. `其処を破つて行くほどに土肥次郎実平二千余騎で支へたり
  3. `其処をも破つて行くほどに彼処にては四五百騎此処にては二三百騎百四五十騎百騎ばかりが中を駆け破り駆け破り行くほどに主従五騎にぞなりにける
  4. `五騎が中までも巴は討たれざりけり
  1. `木曾殿巴を召して
  2. `己は女なればこれより疾う疾う何方へも落ち行け
  3. `義仲は討死をせんずるなり
  4. `人手にかからずは自害をせんずれば
  5. `義仲が最後の軍に女を具したりけり
  6. `など云はれん事も口惜しかるべし
  7. `と宣へどもなほ落ちも行かざりけるがあまりに強う云はれ奉りて
  8. `あはれよからう敵がな
  9. `木曾殿に最後の軍して見せ奉らん
  10. `とて控へて敵を待つ処にここに武蔵国に聞えたる大力御田八郎師重三十騎ばかりで出で来たる
  11. `巴その中へ破つて入りまづ御田の腹に押し並べむずと組んで引き落し我が乗つたりける鞍の前輪に押し付けてちとも働かさず首捩ぢ切つて捨ててけり
  12. `その後巴は物具脱ぎ捨て東国の方へ落ち行きける
  1. `手塚太郎討死す
  2. `手塚別当落ちにけり
  3. `木曾殿今井四郎ただ主従二騎になつて宣ひけるは
  4. `日比は何とも覚えぬ鎧が今日は重うなつたるぞや
  5. `と宣へば今井四郎申しけるは
  6. `御身も未だ疲れさせ給ひ候はず
  7. `御馬も弱り候はず
  8. `何によつて一領の御着背長を俄に重うは思し召され候ふべき
  9. `それは御方に御勢が候はねば臆病でこそさは思し召し候ふらめ
  10. `兼平一騎をば余の武者千騎と思し召し候ふべし
  11. `此処に射残したる矢七つ八つ候へば暫く防ぎ矢候はん
  12. `あれに見え候ふは粟津の松原と申し候ふ
  13. `君はあの松の中へ入らせ給ひて静かに御自害候へ
  14. `とて打ちて行くほどにまた新手の武者五十騎ばかり出で来たり
  1. `兼平はこの御敵暫く防ぎ参らせ候ふべし
  2. `君はあの松原へ入らせ給へ
  3. `と申しければ義仲
  4. `六条河原にていかにも成るべかりしかども汝と一所でいかにも成らん為にこそ多くの敵に後ろを見せてこれまで遁れたなれ
  5. `所々で討たれんより一所でこそ討死をもせめ
  6. `とて馬の鼻を並べて駆けんとし給へば今井四郎馬より飛び下り主の馬の水附に取り付き涙をはらはらと流いて
  7. `弓矢取は年比日比いかなる高名候へども最後に不覚しぬれば永き瑕にて候ふなり
  8. `御身もは疲れさせ給ひ候ひぬ
  9. `馬も弱つて候ふ
  10. `御方に続く御勢も候はねば大勢に押し隔てられ云ふかひなき人郎等に組み落されて討たれさせ給ひ候ひなば
  11. `さしも日本国に鬼神と聞えさせ給ひつる木曾殿をば何某等郎等の手に懸けて討ち奉りたり
  12. `など申されん事口惜しかるべし
  13. `ただ理を枉げてあの松の中へ入らせ給へ
  14. `と申しければ木曾殿
  15. `さらば
  16. `とてただ一騎粟津の松原へぞ駆け給ふ
  1. `今井四郎取つて返し五十騎ばかりが勢の中へ駆け入り鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて
  2. `遠からん者は音にも聞け
  3. `近からん人は目にも見給へ
  4. `木曾殿の乳母子に今井四郎兼平とて生年三十三に罷り成る
  5. `さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ
  6. `兼平討つて兵衛佐殿の御見参に入れや
  7. `とて射残したる八筋の矢を差し詰め引き詰め散々に射る
  8. `死生は知らず矢庭に敵八騎射落しその後太刀を抜き斬つて廻るに面を合はする者ぞなき
  9. `ただ射取れや射取れ
  10. `とて矢先を揃へて雨の降るやうに差し詰め引き詰め散々に射けれども鎧よければ裏かかず開間を射ねば手も負はず
  1. `木曾殿はただ一騎粟津の松原へ駆け給ふほどに比は正月二十一日入相ばかりの事なるに薄氷は張つたりけり
  2. `深田ありとも知らずして馬をさつとうち入れたれば馬の首も見えざりけり
  3. `煽れども煽れども打てども打てども働かず
  4. `かかりしかども今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給ふ内甲を相模国の住人三浦石田次郎為久追つかかりよつ引いてひやうと放つ
  5. `木曾殿内甲を射させ痛手なれば甲の真甲を馬の首に当て俯し給ふ処を石田が郎等二人落ち合つて木曾殿の御首をつひに其処にて賜はつてけり
  1. `やがて首をば太刀の鋒に貫き高く差し上げ大音声を揚げて
  2. `この日比日本国に鬼神と聞えさせ給へる木曾殿をば三浦石田次郎為久が討ち奉るぞや
  3. `と名乗りければ今井四郎軍しけるがこれを聞きて
  4. `今は誰を庇はんとて軍をばすべき
  5. `これ見給へ東国の殿原日本一の剛の者の自害する手本よ
  6. `とて太刀の鋒を口に含み馬より倒に飛び落ちて貫かつてぞ失せにける
  7. `さてこそ粟津の軍は無かりけれ