五一三〇樋口被斬
原文
- `今井が兄の樋口次郎兼光は十郎蔵人討たんとてその勢五百騎で河内国長野城へ越えたりけるが其処にては討ち洩らしぬ
- `紀伊国名草に在りと聞いてやがて続いて越えたりけるが都に軍ありと聞いて取つて返し上るほどに淀の大渡の橋にて今井が下人に行き合ひたり
- `これはされば何方へとて渡らせ給ひ候ふやらん
- `都には軍出で来て君討たれさせ給ひ候ひぬ
- `今井殿も御自害候ふ
- `と云ひければ樋口次郎涙をはらはらと流いて
- `これ聞き給へ殿原
- `君に御志思ひ参らせん人々はこれより疾う疾う何方へも落ち行きいかならん乞食頭陀の行をもして君の後世を弔ひ参らせ給へ
- `兼光は都へ上り討死して冥途にても君の御見参に入り今井四郎をも今一度見ばやと思ふ為なり
- `と云ひければこれを聞きて五百余騎ありけるが彼処此処に落ち行くほどに鳥羽の南門を過ぐるにはその勢僅かに二十余騎にぞなりにける
- `樋口次郎今日既に都へ入ると聞えしかば党も高家も七条朱雀四塚様へ馳せ向かふ
- `樋口が手に茅野太郎光広といふ者あり
- `四塚に幾勢の中へ駆け入り鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げ
- `この勢の中に甲斐一条次郎殿の御手の人やまします
- `と問ひければ
- `一条次郎が手で無いは軍をばせぬか
- `誰にも合へかし
- `とてどつと笑ふ
- `笑はれて名乗りけるは
- `かう申す者は信濃国諏訪上宮住人茅野大夫光家が子に茅野太郎光広といふ者なり
- `必ず一条次郎殿の御手を尋ぬるにはあらず
- `弟の茅野七郎それにあり
- `光広が子共二人信濃国に置いたるが
- `あつぱれ我が父はようてや死にたるらん悪しうてや死にたるらん
- `と嘆かんずる処に弟の七郎が前にて討死して子共に確かに聞かせんと思ふ為なり
- `敵をば嫌ふまじ
- `とてあれに馳せ合ひこれに馳せ合ひ武者三騎斬って落し四人に当たる敵に押し並べむずと組んでどうと落ち差し違えてぞ死ににける
- `樋口次郎は児玉党に結ぼれたりければ児玉の人共寄り合ひて
- `抑も弓矢取の我も人も広い中へ入るといふは自然の時一まづの息をも継ぎ暫しの命をも生かうと思ふ為なり
- `されば樋口が我等に結ぼほれけんもさこそありけめ
- `命ばかりを助けん
- `とて樋口が許へ使者を立てて
- `木曾殿の御内に今井樋口と聞えさせ給ひて候へども木曾殿討たれさせ給ひ候ひぬ
- `今井殿も御自害候ふ上は何か苦しう候ふべき
- `我等が中へ降人に成り給へ
- `今度の勲功の賞に申し替へて御命ばかりをば助け奉らん
- `と云ひ送つたりければ樋口次郎聞ゆる兵なりしが運や尽きにけんおめおめと児玉党の中へ降人にこそ成りにけれ
- `大将軍範頼義経にこの由を申す
- `院御所へ奏聞して緩されたりしをかたへの公卿殿上人局の女房女童に至るまで
- `木曾が法住寺殿へ寄せて御所に火を懸けて多くの人々を焼き滅ぼし失ひたりしには彼処にも此処にも
- `今井
- `樋口
- `と云ふ声のみこそありしか
- `これらを緩されんは無下に口惜しかるべし
- `と口々に申されたりければ叶はずしてまた死罪にぞ定められける
- `同じき二十二日新摂政殿停められさせ給ひて元の摂政還着し給ふ
- `僅か六十日の内に替へられさせ給ひぬれば未だ見果てぬ夢の如し
- `昔粟田関白は悦び申しの後ただ七箇日だにありしぞかし
- `これは六十日とは申せどもその間に節会も除目も行はれぬれば思ひ出で無きにあらず
- `同じき二十四日木曾左馬頭余党五人が首大路を渡さる
- `樋口次郎は降人たりしが頻りに
- `首の伴せん
- `と申しければ
- `さらば
- `とて藍摺の直垂立烏帽子にてぞ渡されける
- `同じき二十五日樋口次郎つひに斬られにけり
- `今井樋口楯根井とて木曾が四天王のその一つなればこれらを助けられんは養虎の憂へあるべし
- `と殊に沙汰ありて斬られけるとぞ聞えし
- `伝に聞く虎狼の国衰へて諸侯蜂の如くに起つし時沛公先に咸陽宮へ入るといへども項羽が後に来たらん事を恐れて妻は美人をも犯さず金銀珠玉をも掠めず徒らに函谷関を守つて漸うに敵を滅ぼして天下を治する事を得たりき
- `されば木曾左馬頭もまづ都へこそ入るといふとも頼朝朝臣の命に従はましかばかの沛公が謀には劣らざらまし
- `さるほどに平家は去年の冬の比より讃岐国八島の磯を出でて摂津国難波潟に押し渡り福原の旧里に居住して西は一谷を城郭に構へ東は生田森を大手の木戸口とぞ定めける
- `その間福原兵庫板宿須磨に籠る勢山陽道八箇国南海道六箇国都合十四箇国を討ち従へて召さるるところの軍兵十万余騎とぞ聞えし
- `一谷は北は山南は海口は狭くて奥広し
- `岸高く聳えて屏風を立てたるに異ならず
- `北の山際より南の海の遠浅まで大石を重ね上げ大木を伐つて逆茂木に引き深き所には大船共を欹て掻楯かき城の面の高矢蔵には一人当千と聞ゆる四国鎮西の兵共甲冑弓箭を帯して雲霞の如くに並み居たり
- `矢蔵の前には鞍置馬共十重二十重に引つ立てたり
- `常に大鼓を打つて乱声をす
- `一張の弓の勢ひは半月胸の前に懸かり三尺の剣の光は秋の霜腰の間に横たへたり
- `高き所には赤旗多くうち立てたれば春風に吹かれて天に翻るは火焔の燃え上がるに異ならず