一三四老馬

原文

  1. `大臣殿安芸右馬助能行を使者にて一門の人々の許へ
  2. `義経こそ三草の手を攻め破つて既に乱れ入り候ふなれ
  3. `山の手が大事で候へば各向かはれ候ひなんや
  4. `と宣ひ遣はされたりければ皆辞し申されけり
  1. `大臣殿能登殿の許へも
  2. `度々の事では候へども今度もまた御辺向かはれ候ひなんや
  3. `と宣ひ遣されたりければ能登殿の返事に
  4. `軍をばさやうに我が身一人の大事と思うてし候はんにこそよう候はんずれ
  5. `猟漁などのやうに足立ちのよからう方へは向かはう悪からん方へは向かはじなど候はんには軍に勝つ事はよも候はじ
  6. `幾度でも候へ強からん方へは教経承つて罷り向かひ候ふべし
  7. `一方打破つて参らせ候はん
  8. `御心安う思し召され候へ
  9. `と申されたりければ大臣殿斜めならずに悦び給ひて越中前司盛俊を先として一万余騎能登殿にぞ付けられける
  1. `兄越前三位通盛卿を相具して山の手をぞ固めらる
  2. `この山の手と申すは一谷の後ろ鵯越の麓なり
  3. `通盛卿は能登殿の仮屋へ北方迎へ給ひて最後の名残惜しまれけり
  1. `能登殿大きに怒つて
  2. `この手は大事の方とて教経向けられ候ふがまことに強う候ふなり
  3. `只今も上の山より敵落すほどならば取る物も取り敢へ候ふまじ
  4. `たとひ弓をば持ちたりとも矢を矧げずば悪しかるべし
  5. `たとひ矢を矧げて持ちたりとも引かずばなほも悪しかるべし
  6. `況してさやうにうち解けらせ給ひては何の用にか逢はせ給ふべき
  7. `と諫められて通盛卿
  8. `げにも
  9. `とや思はれけん急ぎ物具して人をば返し給ひけり
  1. `五日の暮れ方に源氏昆陽野を立つて漸う生田森に攻め近づく
  2. `雀松原御影松昆陽野の方を見渡せば源氏手々に陣を取つて遠火を焚く
  3. `更けゆくままに眺むれば山の端出づる月の如く平家も
  4. `遠火焚けや
  5. `とて生田森にも形の如くぞ焚いたりける
  6. `明けゆくままに見渡せば晴れたる空の星の如し
  7. `これや昔河辺の蛍と詠じ給ひけんも今こそ思ひ知られけれ
  8. `かやうに源氏は彼処に陣取つては馬休め此処に陣取つては馬飼などしけるほどに急がず
  1. `平家の方には
  2. `今や寄する今や寄する
  3. `と相待つて安い心もせざりけり
  1. `同じき六日の曙に大将軍九郎御曹司義経一万余騎を二手に分かちて土肥次郎実平に七千余騎を差し副へて一谷の西の木戸へ差し遣はす
  2. `我が身は三千余騎で一谷の後ろ鵯越を落さんとて丹波路より搦手へこそ向かはれけれども
  3. `これは聞ゆる悪所にてあるなり
  4. `同じう死ぬるとも敵に逢ひてこそ死にたけれ悪所に落ちては死にたからず
  5. `あつぱれこの山の案内者やある
  6. `と口々に申しければここに武蔵国の住人平山武者所進み出でて
  7. `季重こそこの山の案内よく存じ仕つて候へ
  8. `と申しければ御曹司
  9. `和殿は東国育ちの者の今日初めて見る西国の山の案内者大きにまことしからず
  10. `と宣へば平山重ねて申しけるは
  11. `こは御諚とも覚え候はぬものかな
  12. `吉野泊瀬の花をば見ねども歌人が知り敵の籠りたる城の後ろの案内をば剛の武者が知り候ふ
  13. `と申しける
  14. `これまた傍若無人にぞ聞えし
  1. `また武蔵国の住人別府小太郎清重とて生年十八歳に成りける小冠者進み出でて申しけるは
  2. `父にて候ひし義重法師が教へ候ひしは
  3. `山越えの狩をもせよまた敵にも襲はれよ深山に迷ひたらんずる時は老馬に手綱うち懸けて先に追つ立て行け
  4. `必ず道へ出でうずるぞ
  5. `とこそ教へ候ひしか
  6. `と申しければ御曹司
  7. `優しうも申したるものかな
  8. `雪は野原を埋めども老いたる馬ぞ道は知る
  9. `といふ例しあり
  10. `とて白葦毛なる老馬に鏡鞍置き白轡嵌げ手綱結んでうち懸け先に追つ立て未だ知らぬ深山へこそ入り給へ
  1. `比は如月初めの事なれば峰の雪簇消えて花かと見ゆる所もあり
  2. `谷の鶯音信れて霞に迷ふ所もあり
  3. `登れば白雪皓々として聳え下れば青山峨々として岸高し
  4. `松の雪だに消えやらで苔の細道幽かなり
  5. `嵐に比ふ折々は梅花ともまた疑はれ東西に鞭を挙げ駒を早めて行くほどに山路に日暮れぬれば皆下り居て陣を取る
  6. `ここに武蔵坊弁慶ある老翁を一人具して参りたり
  7. `御曹司
  8. `あれはいかに
  9. `と宣へば
  10. `これはこの山の猟師で候ふ
  11. `と申す
  12. `さては案内よく知つたるらん
  13. `いかでか存じ仕らでは候ふべき
  14. `御曹司
  15. `さぞあるらん
  16. `これより平家の城廓一谷へ落さうと思ふはいかに
  17. `努々叶ひ候ふまじ
  18. `凡そ三十丈の谷十五丈の岩崎などをば容易う人の通ふべきやうも候はず
  19. `その上城の内には落し穴をも掘り菱をも立てて待ち参らせ候ふらん
  20. `況して御馬などは思ひも寄り候はず
  21. `と申しければ御曹司
  22. `さてさやうの所は鹿は通ふか
  23. `鹿は通ひ候ふ
  24. `世間だにも暖かになり候へば草の深きに臥さんとて播磨の鹿は丹波へ越え世間だにも寒うなり候へば雪の浅きに食はんとて丹波の鹿は播磨の印南野へ越え候ふ
  25. `とぞ申しける
  26. `御曹司
  27. `さては馬場ごさんなれ
  28. `鹿の通ふ所を馬の通はざるべきやうやある
  29. `さらばやがて案内者せよ
  30. `と宣へば
  31. `この身は年老いていかにも叶ひ候ふまじ
  32. `と申す
  33. `さて汝に子はないか
  34. `候ふ
  35. `とて熊王丸とて生年十六歳に成りける童を奉る
  36. `御曹司忝くも髻取り上げさせ給ひて父をば
  37. `鷲尾庄司武久
  38. `といふ間これをば
  39. `鷲尾三郎義久
  40. `と名乗らせて先打ちをさせ一谷の案内者にこそ具せられけれ
  41. `平家滅び源氏の世になりて後鎌倉殿と仲違うて奥州で討たれ給ひし時
  42. `鷲尾三郎義久
  43. `と名乗つて一所で死ににける兵なり