原文
- `六日の夜半ばかりまでは熊谷平山搦手にぞ候ひける
- `熊谷子息の小次郎を呼うで云ひけるは
- `この手は悪所であんなれば誰先といふ事もあるまじ
- `いざうれ土肥が承つて向かうたる播磨路へ寄せて一谷の真先駆けう
- `と云ひければ小次郎
- `然るべう候ふ
- `誰もかうこそ申したう候ひつれ
- `さらば疾う寄せさせ給へ
- `と申す
- `熊谷
- `但し此手には平山もあるぞかし
- `打ち籠め軍好まぬ者なり
- `平山がやう見て参れ
- `とて下人を見せに遣はす
- `案の如く平山は熊谷より先に出で立ちて
- `人をば知るべからず季重に於いては一引きも引くまじいものを引くまじいものを
- `と独り言をぞし居たりける
- `下人が馬を飼ふとて
- `憎い馬の長食哉
- `とて打ければ平山
- `かうなせそ
- `その馬の名残も今夜ばかりぞ
- `とてうち立けり
- `下人走り帰つて主にこの由告げければ
- `さればこそ
- `とてこれもやがてうち立ちけり
- `熊谷がその夜の装束には褐の直垂に赤革威の鎧着て紅の母衣を懸け近太栗毛といふ聞ゆる名馬にぞ乗つたりける
- `子息小次郎は沢潟を一入摺つたる直垂に押縄目の鎧着て西楼といふ白月毛なる馬にぞ乗つたりける
- `旗差は麹塵の直垂に小桜を黄に返いたる鎧着て黄駱毛なる馬にぞ乗たりける
- `主従三騎うち連れ落さんずる谷をば弓手に成し馬手へ歩ませ行くほどに年比人も通はぬ田井畑といふ古道を経て一谷の波打際へぞうち出でける
- `一谷近う塩屋といふ所あり
- `未だ夜深かりければ土肥次郎実平七千余騎で控へたり
- `熊谷夜に紛れて波打際より其処をばつつと馳せ通り一谷の西の木戸口にぞ押し寄せたる
- `その時も未だ夜深かりければ城の内には静まり返つて音もせず御方一騎も続かず
- `熊谷子息の小次郎に云ひけるは
- `我も我もと先に心を懸たる者共は多かるらん
- `既に寄せたれども夜の明くるを相待つてこの辺にも控へたるらんぞ
- `心狭う直実一人とは思ふべからず
- `いざ名乗らん
- `とて掻楯の際にうち寄せ鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて
- `武蔵国の住人熊谷次郎直実子息小次郎直家一谷の先陣ぞや
- `とぞ名乗つたる
- `季重もやがて続いて寄すべかりつるを成田五郎に謀られて今までは遅々したりつるなり
- `成田が
- `死なば一所で死なん
- `と契りし間うち連れて寄せつれば
- `いたう平山殿先駆逸りなし給ひそ
- `軍の先を駆くるといふは御方の勢を後に置いて先を駆けたればこそ高名不覚をも人に知らるれ
- `あの大勢の中へただ一騎駆け入つて討たれたらんは何の詮にか逢ふべき
- `と云ふ間げにもと思ひ小坂のありつるを先にうち上せ下り様に馬の首を引き立て御方の勢を待つ処に成田も続いて出で来たり
- `うち並べて軍のやうをも云ひ合はんずるかと思ひたればさはなくして季重が方をば素気なげに見なしつつ傍をつと通る間
- `あつぱれこの者季重謀つて先駆けうずるよ
- `と思ひ五六段ばかり進んだるをあれが馬は我が馬よりは弱げなるものをと目をかけ一鞭打つて追ひ付き
- `正なうも季重ほどの者をば謀り給ふものかな
- `と云ひかけうち捨て寄せつれば今は遥かに離かりぬらん
- `よも後影をば見たらじ
- `とこそ語りけれ
- `さるほどに東雲漸う明けゆけば熊谷平山かれこれ五騎でぞ控へたる
- `熊谷は先に名乗りたりけれども平山が聞くに名乗らんとや思ひけん掻楯の際に歩ませ寄せ鐙踏ん張り立ち上がり大音声を揚げて
- `抑も以前に名乗つつる武蔵国の住人熊谷次郎直実子息小次郎直家一谷の先陣ぞや
- `とぞ名乗つたる
- `城の内にはこれを聞いて
- `いざ終夜名乗る熊谷親子を引つ提げて来ん
- `とて進む平家の侍誰々ぞ
- `越中次郎兵衛盛嗣上総五郎兵衛忠光悪七兵衛景清後藤内定経を先として宗徒の兵二十余騎木戸を開いて駆け出でたり
- `ここに平山は滋目結の直垂に緋威の鎧着て二引両紋の母衣をかけ目糟毛という知られた名馬に乗っていた
- `旗差は黒革威の鎧に甲猪首に着なしつつ錆月毛なる馬にぞ乗つたりける
- `熊谷駆くれば平山続き平山駆くれば熊谷続く
- `互ひに我劣らじと入れ替へ入れ替へ揉みに揉うで火出づるほどにぞ攻めたりける
- `平家の侍共手いたう駆けられて叶はじとや思ひけん城の内へさつと引いて敵を外様になしてぞ防ぎける
- `熊谷は馬の太腹射させ跳ぬれば脚を越えて下り立つたり
- `子息小次郎直家も
- `生年十六歳
- `と名乗つて掻楯の際に馬の鼻突きするほどに寄つて戦ひけるが弓手の肘を射させこれも馬より下り父と並んでぞ立つたりける
- `熊谷は鎧に立つたる矢共かなぐり捨て城の内を睨まへ大音声を揚げて
- `去年の冬鎌倉を立ちしより命をば兵衛佐殿に奉り屍を一谷の汀に曝さんと思ひ切つたる直実ぞかし
- `去んぬる室山水島二箇度の軍にうち勝つて高名したりと名乗る越中次郎兵衛は上総五郎兵衛悪七兵衛は無いか能登殿はおはせぬか
- `高名不覚をも敵によつてこそすれ人毎にはえ為じものを
- `ただ熊谷父子に落ち合へや落合へや組めや組めや
- `とぞ罵つたる
- `城の内にはこれを聞いて越中次郎兵衛盛嗣好む装束なれば紺村濃の直垂に赤威の鎧着て連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが熊谷父子に目を懸けて歩ませ寄る
- `熊谷父子は中も破られじと間も透かさず立ち並び太刀抜いて額に当て後ろへは一引も引かずいよいよ前へぞ進んだる
- `越中次郎兵衛これを見て叶はじとや思ひけん取つて返す
- `上総五郎兵衛これを見て
- `汚い殿原の振舞ひかな
- `しや組まんずるものを落ち合はぬことはよもあらじ
- `とて既に駆け出で組まんとしければ次郎兵衛五郎兵衛が鎧の袖を控へて
- `君の御大事これに限るべからず
- `あるべうもなし
- `と制せられて力及ばで組まざりけり